今日も朝だけ観光(写真付き)
ちょうど今日だけ晴れるなんてラッキー!
10日前に「新しく見つけたガソリンスタンドに給油に行くついでに寄り道して観光」と書きました。今日、ちょうどガソリンがなくなったので給油に行ったついでにまた観光してきました(30分だけです)。
新潟県内のお寺で、こんなふうに立派な堀を巡らした所がほかにあるのかどうか知りません。いつまでも佇んでいたい美しい所ですが、健康のためにウォーキングしに立ち寄ったのですから、そう遊んでばかりもいられません。後ろ髪を引かれる思いで、写真を撮ったらすぐお寺の近くの道を歩き始めました。
いわゆる観光地というわけではないので、本当に誰もいません。静かです。心が落ち着きます。
若いときから私は、日本の古い建築を見るのが好きです。全然詳しくはありませんけれど好きです。特に木がたくさん組み合わされた複雑な構造に美しさを感じます。重たい屋根を支えるという機能を追求した結果だと思うのですが、機能をとことん追及すると美が宿るんですね。対位法の大家バッハの音楽に通じるものを感じます。
重さを支えるといえば、この写真にも写っていますが、植木の冬囲いもそうですね。お寺の建築とは比べ物にならない軽さが魅力的です。こんな隙間だらけの冬囲いで重たい雪から植木を守れるんですから本当に不思議です。さあ、今年はいつから雪景色になるのでしょう? 雪が降ったらここはまた別の美しさに包まれるんでしょうね。
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おはようございます。
機能をとことん追求すると美が宿る、ということがバッハの音楽に通じる、ということですが、
バッハがインヴェンションやシンフォニアに後から書き加えた装飾音には、
どれ一つとして「余計な音」はない、と言えるのではないでしょうか。
うろ覚えですが、モーツァルトの作品が上演された時、臨席した王が
「この音楽は音符が多すぎるのではないか」と言うと、モーツァルトは
「陛下、余計な音符は一つもありません」と答えた、という逸話を
どこかで見たような気がします。
コメントありがとうございます。
モーツァルトのその逸話は初めて聞きました。
バッハの装飾音は、何と言うか、もう少し自由で、
もっと多くてもいいし、少なくてもいいし。
ただ、装飾音を「余計なもの」とは考えていなかったことは確かで、
もはや必須の要素と言えるほど装飾音に重要な機能を担わせていたんですね。
おはようございます。
先生のきれいな写真を見ながら、その一方でテレビも見ていました。
BS1の「日本とローマ教皇、知られざる400年の絆」でした。三条の仏教寺院、長崎、ローマ、東京でのいろいろな場面が交錯しています。
そしてこれから先生のチェンバロを聴こう(見よう)と思います。
バッハの音楽はやはりキリスト教とつながっていると思いながら。
コメントありがとうございます。
400年前といえば1620年、バロック音楽が始まった頃ですね。
私のレパートリーにはもっと古いチェンバロ音楽もあります。
バッハは300年前くらいですね。
私は音楽に関してはこの時代のものが当たり前になっていて、古いという感じが全然しません。