バッハ演奏と時代劇の共通点とは?
バッハが生きた時代がちょうど江戸時代だから、という話ではありませんよ。
キーワードは「時代考証」です。と言われてもピンと来ないかもしれませんね。丁寧にお伝えしましょう。
時代劇では時代考証が大切です。江戸時代の風景に電信柱とか自動車とかが写りこんでいると台無しです。アイスクリームやスパゲティが出てきても台無しです。単に「見栄えが悪い」という程度ではなくて、本当に台無しなんですよ。
時代劇を見る人は巧みなストーリー展開と真に迫る演技に引き付けられて、江戸時代にタイムスリップしたような気分になって、そこで展開される人間ドラマに共感します。時代劇の本当の目的はこの「人間ドラマに共感する」というところであって、江戸時代というのはそのための場面設定というわけです。たかが場面設定ではありますが、それがリアルであればあるほど、見る人はタイムスリップした気分になって場面に入り込んでいきます。逆に言うと、場面設定が間違いだらけだったり嘘っぽかったり幼稚だったりすると、見る人が一気に興醒めするんですね。人間ドラマを伝えるどころではありません。だから、場面設定をリアルにするために時代考証が大切になるというわけです。
時代考証をしっかりやるのが大切だといっても、これはなかなか評価されない作業ですよね。素晴らしい演技や素晴らしいストーリー展開なら、見る人は「素晴らしい!」と言ってくれますが、「この時代考証は素晴らしい!」とは言いませんからね。いわば縁の下の力持ちです。
ではバッハ演奏ではどうでしょうか?
私は時々「どうしてチェンバロなんていう古い楽器で、バッハなんていう古い曲ばかり弾くんですか? 昔を懐かしんでいるんですか?」と尋ねられることがあります。最近はあまり聞かれなくなってきたんですけど、20年前はそんな質問ばっかりでしたね。
私はチェンバロやバッハが古くて懐かしいから弾いているのではありません。ましてや古すぎて物珍しいからではありません。私がチェンバロでバッハを弾くときはいつも、今作られたばかりの曲という感覚で弾きます。
曲の解説をするときなんかも、「じつはバッハはここで、弟子にレッスンするときにこんな複雑な装飾音を加えているんですよ。」などと現在形で言うものですから、お客様から「まるでバッハに会ってきたみたいですね!」とからかわれます。
演奏にあたっては常に時代考証を徹底的にします。演奏のどこかに19世紀や20世紀の気配が入り込んでしまっては、お客様が「何か変だ」と(意識するかしないかはともかく)察して、伝わるものも伝わらなくなります。
時代劇同様、頑張ってバッハ演奏の時代考証を徹底しても、そのこと自体は気付かれることも評価されることもない地味な作業です。目的はただ一つ、聴く人が18世紀の中部ドイツにタイムスリップすることですから。
チェンバロでバッハを弾いていても、私が本当に伝えたいのは「美とは」「人間とは」「真剣に生きるとは」といった普遍的なものです。私にとってはチェンバロによるバッハという場を借りるのが一番表現しやすいからそうしているのです。別の演奏家にとってはピアノによるショパンかもしれませんし、トランペットによるルイ・アームストロングかもしれません。
と偉そうなことを言う私も、この事に気付くまでは音楽の聞き方がとても狭かったと思います。単に「ロマン派の音楽はどうもしっくりこない」「ジャズはよく分からない」と、何でも自分の好き嫌いを前面に押し出して評価していたものです。今では「私自身はその楽器でその曲を弾きはしないけれど、本当に伝えたいことは同じなんだ」と共感できるようになってきました。
それとともに、自分が専門とする音楽でなくても広く受け入れられるようになってきました。限られた人生に自分が演奏できるジャンルは限られますが、聴いて喜べるジャンルが広がるというのは、人生を何倍も豊かに生きることにつながりますね。
追伸:
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私も現代音楽やポピュラー音楽は、ずっと「食わず嫌い」していましたが
八百板さんの言葉を読んで、意識を改めました。
作曲家が音楽を通じて聴衆に伝えたいことはどのジャンルにも通じることで、
それを演奏家が聴衆に伝えるために、誠実に真摯に追求していることに、
聴衆として共感し、楽しめることは、幸せなことだと思います。
いわば「音楽に貴賎なし」ですね。
コメントありがとうございます。
「音楽に貴賎なし」そのとおりですね。
クラシック音楽を「他のジャンルよりも高級だから価値がある」という捉え方をしていると、本当の価値を見失いますよね。
もしもこのブログが本であったら、私は何か所かアンダーラインを
ひいていました。昔よくそうやっていました。
ここでは線は弾けないので日記帳に書き写しました。「チェンバロでバッハを弾いていても・・・」の箇所です。チェンバロのきれいな音色に浸っていましたがそこまでは考えが及びませんでした。
ありがとうございます。日記帳に書き写してくださるなんて感激です!
じつは、聴き手の人は気付いていないのかもしれませんが、音楽を聴いて本当に感動するときというのは、その「美とは」「人間とは」「真剣に生きるとは」といった本質的なことが伝わったときだけなんですよ。ただ上手に弾いたり美しい音を奏でたりしても、それだけだと感心されるだけです。
ですので、コンサートが終わってお客様から「今日の演奏は上手で感心しました」と言われるのは、演奏家としては失敗ということになるんです。
横からの口出しをお許しください。
「音楽を聴いて本当に感動するとき」「本質的なことが伝わったとき」というのが、
八百板さんが所信表明で言われる
「バッハが降臨したとき」(ほかの作曲家でも)なのではないでしょうか。
そうそう、そういうことなのです!
昔、雑誌の投書に「水戸黄門で、ドラマのエンディングで、御一行が次の土地目指して旅立って行くとき、空に飛行機が飛んでいた」というものがあったのを思い出しました(笑)。
聖書に「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」という言葉があります。時間に追われていたり、面倒だったりすると、適当に済ませてしまおうと思ったりしますが、先生の音楽に対するお気持ち等を思い出して、自分に喝をいれようと思いました。
私が書いたことを聖書と関係付けてくださるとは!
私の場合はいつも「本当はどうなんだろう?」という好奇心に支えられています。無理に義務感で頑張っているわけでないので、私でも続けていられるんだと思います。
以前のコメと重複しますが ・・・ ゴールドベルグ17変奏はモダンジャズのアルトサックス奏者・チャーリー・パーカーの得意フレーズで開始される。
バッハこそタイムマシンで現代に行き、その演奏を知ったんじゃなかろうか?
トーマス教会の内部を調べたら、タイムマシンがあるかもしれない。
何度聴いても卒倒しそうになるほど衝撃を受けます。
ありがとうございます。
芹澤さんのコメントを読むうちに、私もジャズへの興味が湧いてきます。
普通は「ジャズ奏者の方がバッハの真似をした」と考えると思いますが、その逆の発想をする芹澤さんの視点から、ジャズへの愛を感じます。