フランス組曲第3番と母の思い出

今、バッハのフランス組曲第3番のビデオ収録が最終段階となっています。あとジーグ1曲なんですが、なかなか仕上がらなくて。第1楽章のアルマンドを収録してからもう1ヶ月以上が過ぎてしまいました。

このフランス組曲第3番ですが、私にとって何かと思い出のある曲です。

 

何を隠そう、私が人生で最初に弾いたバッハが、このフランス組曲第3番のアルマンドなんです。って書いて、ピアノが弾ける人なら驚くでしょうか。インヴェンションを1曲も弾かないうちから(というか知らないうちから)こんな曲を生徒に与えるピアノ教室の先生は滅多にいませんよね。当時私は中学1年生か2年生だったはずですが、小学6年生の春にピアノを習い始めたばかりの身にとっては、しかもインヴェンションを弾いたこともないのに、けっこう苦労しましたよ。弾いても弾いても音楽にならなくて、それを毎日聞かされた母はさぞ参ったことと思います。でも文句の一言も言われた記憶がなかったので、旋律が途中で止まろうが音が違おうが、母は大して気にならなかったのかもしれませんけどね。

結局ピアノ教室で弾いたのはアルマンドだけで、あとは他の組曲のいくつかの楽章をつまみ食いみたいにして習っている最中に、中学卒業のときに先生と喧嘩してピアノ教室を辞めてしまいました。後は自分勝手に残りの楽章も自力でレコードの真似をしながら、家にあるピアノで毎日バッハを弾き散らかす高校時代でした。

 

大学の工学部に合格したお祝いに、両親から小さな練習用のチェンバロを買ってもらいました。その日からは、今までピアノで弾き散らかしていたバロック音楽をチェンバロで片っ端から弾きまくる日々でした。思い出のフランス組曲第3番もチェンバロで弾くと「ピアノとは違ってなんて素敵なんだろう!」と夢中でしたっけ。その頃だったと思うのですが、母が時々、私が練習しているのと同じ曲がラジオで流れていたと言っては、「ラジオから流れるような曲を弾けるなんてすごいね」と言うんですよ。母にとっては、その曲が価値ある曲かどうかはラジオで流れるかどうかで判断していた、ということですね。

大学院を修了した私は、両親を横浜の実家にほったらかして一人で新潟県内に就職してしまいました。チェンバロも新潟に持ってきたので、それからは母がバッハを聴くのはもっぱらラジオからだけとなりました。私のほうも、何を練習しても誰も聞いてくれないし(まだ演奏活動なんかしていませんでしたから)、「すごいね」なんて言われることもなく、音楽に関しては孤独な日々となりました。

 

時は流れて、プロのチェンバロ奏者として演奏活動を始めた私は、少しでも活動範囲を広げようと、横浜に置いてきた両親に手伝いを頼んで、年に数回の横浜公演を始めました。会場の予約と事前打ち合わせ、そして当日の受付と楽器搬入搬出の手伝いをしてもらう以外は、宣伝も予約受付も全部遠く離れた新潟で私が一人でするのですから、そんなに大掛かりなことはできません。中心になって動いてくれた父は大変だったでしょうが、母に再び私のチェンバロ演奏を聴かせてあげられるという意味では親孝行をしたのかなとも思っています。

 

7年前の秋のことです。10年ほど続いた横浜公演を、25回目で終わりにすることになりました。認知症が進んできた母から父が目を離せなくなって、一日がかりのコンサートをするのが難しくなったのです。私が親元を離れて新潟でチェンバロ奏者になっているという事を母は分からなくなっているほどでしたから。

これが最後の横浜公演ということは、おそらく私の演奏を母に聴いてもらえる最後の機会になると思いました。それならばと、曲目のほとんどを私が子供時代に家でピアノで弾いていた曲で固めました。認知症が進んでも、昔のことほど覚えているという話ですよね。その日のプログラムの最後を飾ったのが、思い出のフランス組曲第3番全曲です。

終演後に家の近くのレストランで打ち上げをするころには、もう数時間前にコンサートをしたことも忘れてしまっている母でした。でも父によれば、その時の母はいつになく表情が明るく、嬉しそうだったとのことです。私の演奏が記憶には残らなかったけれど、心には残ったんですね。

 

母の葬儀の日。私がプロの音楽家だと聞いた式場の係の人から、開式までの間は式場に備えてあるキーボードを自由に弾いていいと言われました。そんなことになるとは思わないので当然楽譜の準備なんかしていませんでしたが、バッハのフランス組曲は第1番から第6番までの全楽章が頭の中に入っています。これが本当に母の前で演奏する最後になるので、私は第3番をはじめ、ほぼ全曲の全楽章を母の棺に向かって弾きました。

 

先週はフランス組曲第3番のメヌエットの収録でしたが、ある部分がどうしてもうまく弾けなくて困りました。何度も何度も撮り直して時間ばかりが過ぎていって、演奏がどんどん硬くなっていきます。ふと楽譜の先を見ると、額に入った刺繍の作品が壁に一つ掛かっています。刺繍は母の趣味で、遺品として横浜の実家からもらってきたものです。「そうだ、母に聴かせてあげよう」そう思ったら急に気が楽になって、さっきまで弾けなかった所がうそのようにスラスラと流れるではありませんか。そうか、こういう方法で今でも母に聴かせてあげられるのか、と思いました。というより、今回は母に助けてもらったというべきでしょう。

今にして思えば、7年前の最後の横浜公演で弾いたフランス組曲第3番も、表面を撫でただけの薄い演奏だったな、と反省しています。でも、この刺繍の額を通して、毎週毎週の収録のすべてを母も聴いているなら、今精一杯の努力をすればいいんですね。

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フランス組曲第3番と母の思い出” に対して5件のコメントがあります。

  1. T.h より:

     おはようございます。

    横浜での演奏会はでご両親のお力添えがおおきかったのですね。
    私は自分が横浜まで行かれないので、知人に聴いてくれないかと
    連絡していましたが返事がなかったです。多分いかなかったのでしょう。

     mu-anで思いがけず、ご両親にお会いした晩のことを思い出しています。
    紹介されたときは突然でびっくりしました。横浜からお出でになられたのだ!
    何年前だったでしょうか。

     今回は何でフランス組曲第3番なのだろうと思っていた謎が解けました。
    深い思い出の曲だったのですね。
    お盆の時期にふさわしいブログを読ませていただきありがとうございました。

    1. 八百板 正己 より:

      コメントありがとうございます。
      横浜の演奏会を勧めてくださっていたとは知りませんでした。どうもありがとうございます。
      mu-anの演奏会に両親が来たのも、たしか横浜公演をやめる少し前だったと思います。少しでも心によい刺激を与えて認知症が進むのを遅らせることができればと、父が連れてきたのでした。

      1. T.h より:

         2,3お話しましたがあまり会話ははずみませんでした。
        初対面だからしかたがないなあと思っていました。mu-anを出て
        帰るとき、ちょうどお二人も歩いておられました。今夜はとまられるのかなあなど思いながら後ろ姿を見送っていた覚えがあります。

         横浜の知人は中学時代、吹奏楽部でホルンをやっていました。大学は先生と同じ国立横浜大でしたのでお話できればいいなあと勝手に思っていたのでした。2,3年前東京に引っ越ししています。

  2. 長野なお美 より:

    八百板先生

    おはようございます!
    フランス組曲、第3番アルマンドが
    初めての曲とは!!
    驚きましたが、ピアノの先生に
    感謝します(^^)

    お母様の思い出、
    八百板先生のご両親に対するお気持ち
    教えていただき、ありがとうございました。
    刺繍の額によって
    今でも共におられるようですね。

    ただ、横浜に住んでいる私は、
    もっと早く八百板先生を
    存じ上げていれば‥と
    残念な気持ちです。

    1. 八百板 正己 より:

      長野様
      ご丁寧なコメントをありがとうございます。

      首都圏にはチェンバロ奏者はたくさんいます。今は新型コロナでコンサートもほとんど無いかと思いますが、落ち着いたらぜひ、たくさんのチェンバロコンサートを聴きに行ってあげて下さい。

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