楽器が教えてくれる(写真付き)
私のお城「見附チェンバロスタジオ」にて、妻がショパンの「舟歌」を練習中。
弾いている楽器は、ショパンが愛用していたのと同じモデル(ただし装飾は簡素ですが)の、プレイエル1848年製のフォルテピアノです。ショパン狂を自称する妻の持ち物です。
使っている楽譜はポーランドの国家事業として編纂された「ナショナル・エディション(エキエル版)」です。ショパンの自筆譜など当時の大量の資料を基に新たに校訂された、現在最も信頼性が高いとされる楽譜です。
さて、そのナショナル・エディションですが、妻に言わせると、今までのどんなショパンの楽譜とも、今までの誰のショパン演奏とも異なるところがたくさんあるんだそうです。とくにペダルの指示が。そんなとき、普通の人なら「CDでもみんな違うように弾いてるんだし、私もそれにしたがっておけば安全」と気にしないのでしょう。
でもショパン狂を自称する妻は違います。
ショパンが愛用していたこのプレイエル製ピアノを使って、ショパン自身の意図を反映していると考えられるペダル記号を信じて演奏してみます。するとどうでしょう、現代の普通のピアノなら濁りすぎになる「踏みっぱなし」の部分や、現代の普通のピアノなら響きが貧弱になってしまう「ペダル無し」の部分が、このプレイエル製ピアノだと何とも絶妙なぎりぎりの線で「今まで聴いたことないけど、こういうのも有りかもしれない」となることが少なくないんだそうです。そこには、単に響きを美しくというレベルをはるかに超えた、ショパンの高い次元の芸術的要求が垣間見えるそうです。
妻はこのプレイエルを弾くことによって、「今みんなはこの部分をどう弾いているか」「過去の巨匠たちはこの部分をどう弾いてきたか」には関心がなくなったといいます。関心があるのは「ショパン自身はどう弾いていたのか」だけだそうです。
「楽器が教えてくれる」ということですね。今年172歳になるこのピアノは、妻が過去の天才作曲家ショパンと直接対話するための架け橋となってくれています。
このプレイエル製フォルテピアノについては、こちらのページにいろいろ書いておきました。どうぞご覧下さい。
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八百板先生
おはようございます!
素晴らしいフォルテピアノ!
分からないながらも
先生の細やかな説明で勉強になりました。
それにしても、おしゃれですね‥
眺めるだけでも価値があります!
譜面台、燭台、ペタル支柱、象牙の白鍵‥
感動しました!
ご夫婦とも、
その時代にいた方のよう‥
素晴らしいですね!
長野様
嬉しいコメントをありがとうございます!
できることなら、ぜひ実物をご覧いただき、音もお聴きいただきたいものです。
おはようございます。
八百板さんの所有されるチェンバロも、ヴァージナル、フレミッシュ、ジャーマンそれぞれが、
その様式の楽器が作られた時代に、その楽器のために作曲された音楽の、真の姿を
現代の奏者に楽器が教えてくれると思います。
フォルテピアノやチェンバロだけでなく、ヨーロッパの歴史的銘器と呼ばれるパイプオルガンも、
ルイ・ロットのフルートも、皆、そうだと思います。
もっともそのためには、奏者が虚心に「楽器から教わる」という心構えが必要でしょうね。
そう、まさにおっしゃるとおりです。「多様性は豊かさ」ですね。
初めまして、いつもありがとうございます。
毎回楽しく拝見させて頂いています。
あこがれのプレイエルのフォルテピアノの詳細の説明と写真が勉強になりました。
ショパン大好きなピアノレスナーの私の周りにも、フォルテピアノを習っている方がいらっしゃいます。
が、楽器を手に入れても調律ができない…と。
さすが八百板先生。奥様お幸せですね。
年と共にグランドピアノの大きさと鍵盤の重さが手に余るようになってきました。小さく軽やかな楽器に憧れ、見て聴かせていただいて癒されつつ、もうしばらく格闘を続けます。
コメントありがとうございます。
ショパンがお好きなのですね!妻に伝えます。
プレイエルの詳細ページもご覧下さってありがとうございます。
また芳子さんのフォルテピアノが聴きたいです。
あの感動は今も忘れられません。
ありがとうございます。
新型コロナが収束したら、また小ぢんまりとしたコンサートができたらいいですね。
当時の楽譜出版社は、その時代の一般家庭用ピアノ音域の上限であるf6を越えないよう作曲家たちに課していたようで、同時期のスケルツォ4番は、本来なら g6 を泣く泣く(?) Es6 に置き換えてますが、舟歌はショパンが出版した全作品中唯一それを越えた fis6 を使ってますね。主調を半音下の F Dur で作れば収まるにもかかわらず。そうしなかった、という事は余程 Fis Durにこだわっていたんでしょうか。そのプレイエルで F Dur と聴き比べを試せたら、とか、スケルツォを g6 で弾いて見たら?と、興味が尽きません。
コメントありがとうございます。
平均律ではなく、ロマン派の時代に使われたと考えられている不等分律だと、F-DurとFis-Durは響きがものすごく違いますよ。
バロック時代では(ベートーヴェンの頃になっても)F-Durは牧歌的な響きで、これはたぶん当時のすべての音楽家たちの共通理解だったと思っています。
Fis-Durはバロック時代にはあり得ないむちゃくちゃな調だったわけで、バッハはこれを可能にするために特別な音律を工夫(でも平均律ではない)して、あまりに汚い響きをどうにか演奏可能なレベルに持って行きました。
私がプレイエルを調律するときの音律では、Fis-Durはバロックの一般的な音律でいうところのE-durくらいの響きになります。どうにか芸術作品として許される限界という感じですね。ショパンの舟歌をF-Durに移調してしまうと、あのキラキラ感がなくなってしまいます。
1) 拙のピアノ恩師・大森智子氏は、1999年に平均律1巻の全曲録音でスタンウェイを不等分律 1/6 の調律で演奏しています。嬰ヘ長調の第13番は、確かに
混濁度が高いと感じました。
2) ショパンの前奏曲集は平均律に倣っての全24調で作られていますが、バッハが半音上昇順なのに彼は5度圏サイクルを採択しています。それを言及する文献を眼にしたことがありません。が、非常に重要なことではないか、と。
(平均律の)第2番ハ短調と第3番嬰ハ長調はナポリ6度の関係となり、短調から長調への移行による安堵感のみならず、前曲の調性の残滓を残す効果も感じられるのです。
ベートーベンのタイトル付短調ソナタである
第14番/嬰ハ短調(月光)、
第17番/ニ短調(テンペスト)、
第23番/ヘ短調(熱情)の次の曲が全てナポリ6度であるニ長調・変ホ長調、そして嬰ヘ長調なのは果たして偶然でしょうか?少なくとも第24番がバッハどころかベートーベンの時代でさえ♯6個という異常な調の選択は、平均律の配列が
もたらす効果を敷衍したのでは?と想像したりします(..;)。
詳しい考察をありがとうございます。
こういう次元で作曲家の意思を汲み取り、それを演奏に反映できれば、また一歩作曲家に近づけるというわけですね。
横からの口出しをご容赦ください。
芹澤さんのご指摘の、ベートーヴェンのタイトル付きピアノソナタ(短調)ですが、
第17番(ニ短調)と第18番(変ホ長調)は、同じ作品番号(31の2と31の3。31の1はト長調)
ですから、ナポリ6度を意識していたと思いますね。
ベートーヴェンに限らず、3曲または6曲まとめて1つの作品番号としている曲の、
それぞれの調性と配列は、作曲者の意図をくみ取ることが必要だと思います。
「ベートーヴェンに限らず」と書きましたが、バッハの作品には
チェンバロ曲以外にも6曲まとまった曲集がいくつもありますね。
チェンバロ曲で、6曲まとまった曲集の調の配列をみると、
イギリス組曲は A – a – g – F – e – d と、主音が下降しながら「長調・短調・短調」、
フランス組曲は d – c – h – Es – G – E と、前半が短調で後半が長調。
このような調の配列は、バッハが作曲した順に並べたのではなくて、
浄書する時に何らかの意図を持って配列したのではないだろうか、と思います。
知識として知っておくといい情報です。
バロック時代も中ほどまでは、曲集は12曲でまとめるものでした。なぜなら12は完全な数だから(天上の数3かける地上の数4)。
それが、バロックも後期になると半分の6曲が普通になり、ロマン派に鳴るとさらに半分の3曲に減ってしまったんです。
ともに、作曲家が生きていた時代の楽器を所有して、作曲家自身はどう考えていたかを追及している、素晴らしいご夫婦だな、、、と思います。
他の方々の調性に関する書き込みも、参考になりました。今の自分のレベルでは??🤔という所もあるのですが、(ピアノ独学中です)スケールの練習時に調性の雰囲気や関係性も、少しずつつかんでいこうと思います。
お褒めのお言葉、ありがたく頂戴します!
現代のピアノの平均律では、たしかに調性を変えても実際の響きは変わらないのですが、当時の調律法でははっきりと違いがあって作曲家はそれを上手に利用した、ということを知った上で弾けるようになると素晴らしいですね。音楽の豊かさの一つです。
八百板さんの返信に、返信が続けられないようなので、新たなコメントとして書かせていただきます。
>バロック時代も中ほどまでは、曲集は12曲でまとめるものでした。なぜなら12は完全な数だから(天上の数3かける地上の数4)。
バッハより前の時代、コレッリ、アルビノーニ、ヴィヴァルディといった作曲家の曲集は、
たしかに12曲セットになっている曲集が多いですね。
ロマン派になると、交響曲や協奏曲を12曲まとめて出版することはなくなりましたが
ピアノの小品集は12曲とか、変奏曲は主題と12の変奏からなる曲があるとか、
そういったあたりには、12曲を1つのまとまりとして作曲する意識は残っていたと思います。
1年は12カ月、1日の昼と夜はそれぞれ12時間(ヨーロッパの時法では)ですが、
ヨーロッパの音楽家は、1オクターブに12の半音があることにも、そのように
完全な数12をちりばめた天地を創造し給うた神の摂理を感じていたに違いないと思います。
バッハが「24(12の半音すべての、長調と短調)」に特別な意味を込めたように。
そうですね。
ヨーロッパの諸言語での数の名称は、12進法の名残を残していますからね(eleven, twelve)。
東洋人よりもずっと「12個で1セット」という感覚が強いのでしょう。
そういえば「12個」を「1ダース」と言いますね、「10個」は「10」なのに。