初見で弾けはしたけれど

ブクステフーデ作曲、組曲 ホ短調 BuxWV235 より サラバンド。

なんて言っても分かりませんよね。いいんですよ、わざと言ってみただけですから。

 

私がこの曲と出会ったのはもう40年も前のことです。私は小さい頃からバロック音楽が大好きで、それなのにバッハを練習曲として機械的にしか弾かせてくれないピアノの先生に反発して、ピアノ教室を辞めたばかりでした。

高校生になったばかりの生意気な私は「バッハだけじゃなくて、もっともっとマイナーなバロック音楽だってたくさんあるんだ。」と、輸入楽譜の専門店に出かけていきました。そこで見つけたのがブクステフーデのチェンバロ曲全集の楽譜です。

ブクステフーデのチェンバロ曲なんて、レコードも一枚も持っていなかったし、ラジオで聞いたこともありません。それでも、楽譜店でパラパラめくってみると、なんだかバッハよりずっとずっと簡単そうです。「やった! これでバッハ以前のマイナーなレパートリーがたくさん手に入るぞ!」と、喜んで買って帰りました。

バッハのフランス組曲を弾いていた当時の私にとって、このサラバンドは本当に簡単でした。初見でも余裕で弾けました。けれど、何だか音楽にならない、つまらない曲だと思ったんです。

この曲はほぼ始めから最後まで、音符で書かれた分散和音だけからできています。こういう、一見するとメロディーがどこにも無いように思える曲を、当時の私は「本当にメロディーがどこにもない」と思っていました。

「そうか、ブクステフーデはその程度の作曲家なのか。だからバッハよりはるかに評価が低いんだな。」それはとんでもない間違いでした。当時の私は、音符で書かれた分散和音の効果的な弾き方を知らなかったからです。

 

やがてプロのチェンバロ奏者として演奏活動を始めるようになりました。その頃の私はもう「ブクステフーデはその程度の作曲家」なんて思わなくなっていました。一見するとメロディーがどこにも無いように思えても、じつは多くの美しいメロディーが隠されていることが理解できるようになりました。

ところがです、その理解したメロディーの存在を音で表現できないのです。「離れているこの音とこの音を結べば、美しいメロディーになっている」と理屈では分かっていても、自分が弾くその曲の響きからメロディーが聞こえてこないのです。

これには困りました。プロになった私も、やっぱり音符で書かれた分散和音の効果的な弾き方が分からなかったのです。

 

そうこうするうちに、新型コロナが始まりました。演奏活動ができなくなった私は、弾き方を徹底解説するビデオを作って販売する活動に転換しました。ただ曲を弾いただけのビデオなら、世界的な奏者による名演がいくらでも無料で聞ける時代です。私はその逆を行くことにしました。演奏時間がたった数分の曲の解説に1時間かけます。そのための準備に最低でも1週間かけます。

もう余裕で弾ける曲を、それでも全ての音符を決して機械的に弾かないと決めてビデオで解説するのですから、本当にじっくり腰をすえて曲と向かい合って解釈を深める日々が続きました。自然と、音符で書かれた分散和音の効果的な弾き方も見えてきました。というか、自分で納得いく解釈が見出せた曲しかビデオ収録しない、と決めていましたから、何が何でも音符で書かれた分散和音の効果的な弾き方を見出そうと努力しました。

 

少し前のことです。ふとこの曲の楽譜をめくってみた私は気が付きました。「今の自分なら、分散和音の中に隠れているメロディーを表現できるぞ!」と。そして、この曲の収録を今月のスケジュールに入れました。

できたばかりのこの曲の演奏をお聴き下さい。適当にテンポ・ルバートしただけみたいに感じるかもしれませんが、でも本当に細かなところまで吟味しているんですよ。

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初見で弾けはしたけれど” に対して8件のコメントがあります。

  1. 澤田 博實 より:

    私はバッハよりこの曲の方が耳に馴染みます。
    素敵な曲です。

    1. 八百板 正己 より:

      ありがとうございます。嬉しいです。
      一般にはバッハ以外のチェンバロ曲が評価されることは本当に少ないですが、こういう曲を気に入ってくださる方が増えることを願っています。

    1. 八百板 正己 より:

      そうです!ありがとうございます!

  2. Y.M. より:

    素人考えだと、打鍵の仕方で強弱を表現しやすいピアノなら、分散和音の中に隠れている
    メロディーを構成する音を強く打鍵すればメロディーを表現できるかも、なんて思ってしまいますが
    (もちろんそんな単純な物ではないと思います。ショパンのエチュードのように)
    打鍵の仕方で強弱をつけにくいチェンバロで、分散和音の中に隠れているメロディーを表現するには、
    いろいろと精妙な工夫が凝らされているのがわかりました。
    ブクステフーデと同時代のフランスで発達した、小節線のないプレリュードも、
    「隠れているメロディーを表現する」ことを演奏者に要求する音楽だろうと思います。

    1. 八百板 正己 より:

      おっしゃるとおり、小節線のないプレリュードもです。
      今一般に聞かれるような「メロディーがソプラノだけにあってほかは伴奏」という分かりやすい音楽と比べて、聴く人もある程度の訓練が必要な音楽です。

  3. 平田暢子 より:

    とても美しい曲ですね。ちょっと聴いてみるつもりが、最後まで聞き入ってしまいました。素敵な曲ありがとうございます。

    1. 八百板 正己 より:

      そうおっしゃっていただけると、頑張って練習して収録した甲斐があります。

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