この長すぎるスラー、どういうこと?(ビデオ付き)

長すぎです! バッハなのに、このスラーは長すぎです!

 

あなたは音楽用語の「スラー」をご存じですか? そう、複数の音を滑らかにつなげることです。つなぐ音符の上に弧線を書いて表します。

ピアノでロマン派の音楽などを弾いている人にとっては、いつもよく出てくる見慣れた記号ですよね。元気に飛び跳ねるような曲は別ですが、たいていの曲にはスラーがしょっちゅう、それも一小節とか数小節にわたる長いスラーが付けられています。

でも、バッハの時代にはそういうわけでもなかったんですよ。

バロック音楽は「しゃべる音楽だ」などとよく言われます。歌で一つの母音で朗々と歌うイメージよりも、歌詞をたくさんしゃべって表現する、そんな感じです。なので、器楽曲でもスラーで結ぶ音符の数は4つとか、多くてもせいぜい6つ程度。普通はもっと細やかに区切りながら、切れのいい音楽を紡いでいきます。

それなのに、この曲はいったいどうしたことでしょう! バッハのインヴェンション第9番ヘ短調。バッハ自身がきれいに清書した自筆譜には、一小節の12個の音符をつなぐ長いスラーがあちらにもこちらにも!

 

この謎を解く鍵は「ヘ短調」という調性にあります。バッハの時代の「ヘ短調」には、すごく特別な意味が込められていたんです。「絶望」とか「限りない苦悩」とか、尋常でないことを表現するための特殊な調だったんです。

これには、当時の鍵盤楽器の調律法のほか、弦楽器や管楽器の指使いなども関係しています。実際に、当時の楽器で演奏すると「ヘ短調」はすごく特殊な響きになります。

現代の楽器は「改良」されていて均質な表現が簡単にできてしまいます。ヘ短調を演奏しても他の短調と全然違いません。便利と言えば便利です。

バッハの時代の楽器は、そういう意味では不便でした。でも、その不便さを逆手に取って、特殊な表現のために上手に生かしたんですね。

 

この「長すぎるスラー」と「ヘ短調」について、もっと詳しく解説したビデオができました。どうぞご覧下さい。

 

この「長すぎるスラー」と「ヘ短調」の特別の意味をぎっしり詰め込んだら、子供でも弾くこの曲がこんなになってしまいました。

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この長すぎるスラー、どういうこと?(ビデオ付き)” に対して10件のコメントがあります。

  1. aoki より:

    黒鍵が多いとくもるのはそういう構造的理由があったのですか。開放弦の少なさを理由に、あの♭の多い面倒なヘ短調にはスラーをかける、はなるほどと思いました。ピアノだとペダルでやってしまうでしょうか。

    1. 八百板 正己 より:

      コメントありがとうございます。
      ピアノでペダルを踏んでこの曲を弾くと、音階の音が全部重なって響きが濁ってしまいます。ペダルは補助ていどにして、打鍵のスピードを抑えて柔らかい音で弾くでしょう。
      ちなみに、ピアノ曲の楽譜にたくさんのペダル記号が出てくるのは、そうしても響きが濁らないような音符を選んで作曲しているから、という前提もあります。

      1. aoki より:

        あ~、自分はペダルがへたで、手もでかいのでレガートで抑えるのがすきなので、打鍵スピードをおさえやわらかい音を出してみたいと思います。

        関係ないのですが今は気候がいろいろかわって相対的に11月が一番きもちよく台風も花粉もないし、という感じがします(欧州は11月がワーストくらいだし北海道はもう寒いようですが)。よい週末となりますように!

        1. 八百板 正己 より:

          チェンバロもこの季節は調律が安定するんですよ。

  2. Y.M. より:

    バッハの作品は、鍵盤楽器のための曲であっても、弦楽器の発想で作曲されている
    というようなことを、以前のメルマガで拝読したか、どこかで見たような気がします。
    たしかにヘ短調という調は、ヴァイオリン(ソ-レ-ラ-ミ)でもヴィオラ・ダ・ガンバ(レ-ソ-ド-ミ-ラ-レ)でも、開放弦がほとんど使えない調ですね。
    それに、この曲のようにテンポの遅い曲で、1小節にわたるスラーも、普通のヴァイオリン曲には出てこないと思います。

    1. 八百板 正己 より:

      そう、そのとおりですね!

  3. 拝啓
    八百板先生。
    会員動画へのコメ転載です。

    インベンションとシンフォニアを拍子で分類すると、偶数子系と3拍子系はインベンションが 7:8、シンフォニアが 8:7 という具合に、全30曲では丁度15曲ずつ、
    真っ二つに分かれています。
    古典派以降の🎹練習曲が、圧倒的に偶数系に傾いているのに比べて、非常に3拍子系を重視していると言えますね。

    インベンションは一つ手前の8番ヘ長調も3/4ですが、快活的な楽想であり、ヘミオラは1回も出現しません。

    翻って9番ヘ短調は、決して速く弾く事を許されない。アーティキュレーションを自分の好みや思うがままに弾くと、1&2小節目からして聴き手は拍子感覚を見失い、和声の動き(というか区切り)とも相まって、3/2 のヘミオラで聴き取りかねません。それを戒めてのアーティキュレーション明記では、とも思えます。
    逆に曲の前半と後半の折返し点である15&16小節目は、ヘミオラを印象付けるために、スラーを取ったのではないか、と。
    勿論、それで説明出来ない箇所もありますが(..;)。

    1. 八百板 正己 より:

      詳細なコメントをありがとうございます。

      説得力のある分析ですね!
      私が見落としていた視点を教えてくださって感謝です。

  4. Y.M. より:

    芹澤さんのコメントの
    >インベンションとシンフォニアを拍子で分類すると、偶数子系と3拍子系はインベンションが 7:8、シンフォニアが 8:7 という具合に、全30曲では丁度15曲ずつ、
    >真っ二つに分かれています。
    >古典派以降の🎹練習曲が、圧倒的に偶数系に傾いているのに比べて、非常に3拍子系を重視していると言えますね。
    これを読んで思ったのですが、バロック時代には古典派以降に比べて
    クラヴィーアの練習曲を作曲する時にも「舞曲」を念頭に置いていた
    のではないでしょうか?
    バロック時代の音楽は、宗教音楽は別として世俗音楽は、
    椅子に座って謹聴する音楽ではなく、それに合わせて踊る音楽
    だったのかもしれないと思います。

    1. 八百板 正己 より:

      さらに言えば、バッハの時代のドイツでは、宗教音楽と世俗音楽の違いは基本的にありませんでした。
      なので、バッハのカンタータの中でも合唱であれアリアであれ、舞曲のリズムで宗教的な喜びを表現している楽章がとても多いです。

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