偽作と言われようとも(写真付き)
私のお城「見附チェンバロスタジオ」で、フルート奏者の浅利守宏さんとバッハのフルートソナタ ト短調 BWV1020を練習している光景です。
といってもこのソナタ、100年以上も前から学者たちの間で「バッハの作品ではない」という意見が出され続けているのです。19世紀に編纂された「旧バッハ全集」では「バッハのヴァイオリンソナタ」として出版されましたが、今最新の研究成果として販売されている「新バッハ全集」では偽作として削除されているのです。
学問的なことは学者に譲るとして、演奏家としての私の見解はというと、確かにバッハの作品ではあり得ないと直感が言っています。でも、演奏していて燃えるんです! バッハの作品でないとしても、これを今回のコンサートで演奏できるのは音楽家として喜びです。
どういうふうに「燃える」のか説明しましょう。演奏家の直感が言うには、この曲を書いたのは青年です。20歳くらいかな? 当時の人々は早熟だったから、もう少し若かったかな? よく文学の世界で「青年期特有の憂い」といったことが言われますよね。今の私が忘れてしまったような、若くて純粋ゆえの憂い、迷い、反抗、錯乱。そんな思いが音楽の隅々まで満ち溢れているのです。この曲を演奏していると、若い頃の自分に戻ったような新鮮な感じがします。
たとえ学者たちが「これはバッハの作品ではない」と主張して、またそれが事実だとしても、ここにこういう曲が残されていることに変わりはありません。「18世紀の作者不詳のステキなフルートソナタ」として味わえばいいんです。それが、楽譜から削除されてしまうなんて。せめて付録としてでも付けておけばいいのに。
「バッハの真作だから価値がある」「偽作と判明したから価値がない」なんていう判断のし方は貧しいですよね。
どんな曲かお聴きになってください。コンサートの詳細はこちらです。
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今晩は
いつも朝8時、ブログのメールが入るのですが、今日は夜!!!
私の頭で理解できるかどうかわかりませんが、明日の演奏を
楽しみにしています。
それにしても、良い演奏をされるための不断の努力が素晴らしいですね!
大変なことでしょうね。
ただ聴くだけの者のなんと楽なことか。
バッハの作品か否か、私には到底わかるはずはないです。
ただきれいなチェンバロの音色とフルートの音色が奏でられる
音楽にひたりたいと思います。
昨日はご来場ありがとうございました。
お楽しみいただけましたら幸いです。
素晴らしい、楽しい演奏会でした!
私の座席からは八百板先生の演奏のお姿は見えませんでしたが、チェンバロの音はとてもよく聴こえました。きっとたくさんの音符のならぶ楽譜だったと思いますが、滑らかに、こまやかに、楽しそうに弾かれておられたと思います。
浅利先生はときには左足に重心をおかれて、体が斜めになるほど全身で吹いておられました。かっこよかったです。(こんな表現?お許し願います)
フルートとチェンバロの楽しい美しい語り合いの時間を味わってきました。
名演奏、ありがとうございました!
>「18世紀の作者不詳のステキなフルートソナタ」として味わえばいいんです。
その通りですね。
コンサートにいらっしゃるお客様は、論文の口頭発表を聞きに来るのではなくて
八百板さんと浅利さんの奏でる音楽を聴きにいらっしゃるのですから。
もしかするとバッハが、息子たち、弟子たちの成長に目を細めつつ
「私にもこんな時代があったんだ。
ここは一つ、若者に戻ったつもりで、最近の流行を取り入れて書いてみよう」
と思い立って書いたのがこの曲だった。
という珍説が発表されるかもしれません!?
コメントありがとうございます。
「バッハがあえて流行を取り入れて書いた」という説も昔から盛んです。ただ、私の直感では、年齢や流行の違い以上に、人物の性格が違うのを感じます。どっしりとしたバッハは、どんなに若者風を装っても、どっしりとした性格は必ず音楽に反映されるのですが、この曲はもっとずっと繊細な人物の手によるものだと感じるのです。
私は自分では演奏しませんからよくわからないのですが、
学者が楽譜を研究してああだこうだと言うよりも、演奏者の直感で
「これはバッハの真作だ」「これは違う、もっとずっと繊細な人物の曲だ」
と感じることには、言い知れない重みを感じます。
コンサートにいらっしゃるお客様も、学者の論文の口頭発表を聞くのではなくて
演奏者の演奏を聴くのですから、演奏者が
「これはもしかするとバッハの真作ではないかもしれません……。
でも、たとえもしバッハの真作でなくても、素晴らしい曲でしょう!?」
という思いを込めて演奏していれば、それはきっとお客様に伝わるでしょう。
演奏する者が必ずしも他の人よりも作者の人間性を強く感じるとは限らないと思います。鈍感な演奏者だってたくさんいますし、敏感な聴き手だってたくさんいると思います。私だって、長い間妻に促されてそういう感じ方を磨いてきてここに至っているわけです。
コンサート、行きたかったです! 東京在住ですが、仕事さえ何とかなれば新潟まで伺う気持ち満々です!
バッハの真作かそうでないか、なんて問題ではないと、私も思います。たとえマタイ受難曲がバッハの作品でなかったと判明したところで、やはり皆に愛され続けると思います。そのフルートソナタが「バッハの作品だ」と思われたのは、作品自体の持つ生命力のなせる技ではないでしょうか。おかげでずっと残っていくわけですから。
嬉しいお言葉をありがとうございます! 今回、東京と横浜からご来場のお客様がいらっしゃいました。演奏家冥利に尽きます。
何年前だったか、ベーレンライターのバッハのオルガン曲全集で偽作扱いゆえに削除されていたたくさんの曲が、全部まとめて同じベーレンライターから追加出版されたという記事を見ました。いい曲はいい曲として、楽譜が提供されていく流れが定着していくことを願っています。
あの超有名な(G Durの)メヌエットでさえ、実はバッハではないんですから、本作・偽作にこだわるより単純に収録すれば良いですよね?むしろ(一時的に)前夫の未亡人になってしまったアンナの為の曲集に彼の作品を入れてあげたバッハの寛大さと優しさが、この曲の親しみやすさに繋がっているのでは?そう考えれば原作者とバッハとの共作ととらえて良いと思います。ずっと後年、ブラームスとクララがシューマンの遺稿編纂で故人の想いを無視したかのような判断を犯した事に比べたら何とおおらかな、と思います。~スピンアウトしちゃいますがもう一言。しかも結局この作業は二人の見解対立も起こって不仲になってしまった要因にもなっている。ブラームスは私が最も愛する作曲家の中の一人ですが、この行為のウラに彼のシューマンに対する(二重の)ジェラシーを疑わずにはおれない。その屈折感が創作意欲のモチベーションになっている、というのも否めないですが。
おおらかさ、という点でもバッハは偉大ですね(笑)。
コメントありがとうございます。
「バッハのおおらかさ」ということでわたしも思うことがあります。「フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集」には、たどたどしいフリーデマンの作曲練習がいくつも含まれます。ほかにも、バッハが息子たちの作品に手を入れて仕上げてあげたと思われる「偽作」もいろいろあります。それらを見ると、バッハはけっして「こうであらねばならない」と押し付けることなく、豪快な作曲の規則違反も全部丸ごと受け入れてあげているのを感じるのです。主体性を萎縮させないための心配りだったのかもしれませんね。