重低音の正体は?
突然、「ブーーーン」という、小さいけれど非常に低い音をたてて、窓から何かが入ってきました!
その日は私のお城「見附チェンバロスタジオ」にて、バッハのインヴェンション第14番のビデオ編集をしていました。もうチェンバロの練習は終わっていたので、部屋の湿度の心配をする必要はありません。窓を全開にして作業していたのです。
「こんなに低い音はとりあえずスズメバチではあり得ない」と咄嗟に判断して、安心して音のするほうに目を向けました。同時にそれがチェンバロのそばの壁にぶつかって、チェンバロの足元に近いあたりに落ちたみたいです。立ち上がって見に行くと、いましたいました、床から30cmくらいの高さの壁にオニヤンマが止まっていました。
正確に言うとオニヤンマではないのかもしれません。似たような姿の大型のトンボが昆虫図鑑に「なんとかヤンマ」とずらーっと並んでいる、そのどれでもなくてオニヤンマだと言えるほどには虫に詳しくありません。
ともかく、こんなに大きなトンボがスタジオに入ってきたのは、スタジオを開設してからの16年間で初めてのことです。秋になって気温も下がってきたからなのか、あまり元気がなさそうです。部屋の明かりを消せば外に出て行くかと思ったのに、いつまでもチェンバロの足元の壁に止まったままです。つかまえて外に逃がしてやりました。
オニヤンマの羽音って、すごく低いんですね。チェロの最低音くらい。いえ、もう少し低いかな? そもそもトンボの仲間が飛ぶときに羽音を立てるとは思っていませんでした。だって、近くまで人懐こく飛んできて肩に止まったりする赤トンボは、あんなに近くを飛んでも羽音は聞こえませんよね。オニヤンマなんて、自然の中で見るときはいつも遠くを飛んでいますから、もし羽音がするとしても聞こえないでしょう。今回は、静かなスタジオの中に入ってきたから、すごく小さい音だけれど聞こえたんですね。
と書いてきて、ひとつバレてしまったでしょうか。そう、私の絶対音感は少々いい加減なのです。正確な絶対音感を持った人なら、オニヤンマの羽音を「チェロの最低音より長2度下」などと細かく言えるはずですから。
子供のころには正確な絶対音感を持っていたんですよ。それが、バロック音楽と付き合うようになって、「バッハの時代の宮廷のピッチは今より半音くらい低かったから」ということで半音低く調律した楽器のCDをたくさん聴いてきました。自分が持っているチェンバロも3台のうち2台はこの半音低いピッチで固定されています。(いわゆる「バロックピッチ」と呼ばれるものですが、これはじつは業界の妥協の産物で、本当はちょうど半音低いというわけではなかったんですけどね。)
チェンバロ演奏家になった当初はCDなどもその2種類(現代の標準ピッチa=440と、いわゆるバロックピッチa=415)くらいしか出回っていなかったと思います。私の頭の中では、半音違いの2種類の絶対音感が出来上がってしまいました。自分で弾いている時にはすぐ慣れるのですが、聴くだけの時は混乱します。バッハのゴルトベルク変奏曲が嬰ヘ長調に聞こえたり、逆にドビュッシーの「月の光」がニ長調に聞こえたりします。
でも、最近はそんなものでは済まないんですよ。「同じバロック音楽でもフランス宮廷ではさらに半音低い、つまり今より全音低いピッチだったから」ということで全音低く調律した楽器のCDもたくさん持っています。さらに「時にはもっともっと低く調律された楽器も使われていた」ということで、3度も低い特別なチェンバロのCDも持っていますし、逆にバッハの時代のオルガンを忠実に修復して蘇らせた歴史的名器を使ったCDは今より半音以上高く調律されています。
ということで、私の頭の中はこんなにも多く(半音刻みで5種類以上)のピッチがごちゃごちゃに混ざっているのです。
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八百板さんのチェンバロはa=415とa=440、
奥様のフォルテピアノはa=430なのですよね。
絶対音感は脇に置いて、それぞれの楽器が最も良く鳴るピッチを探求することは
ご自分で楽器を調律される方だけができることではないでしょうか。
コメントありがとうございます。
楽器のピッチというのは、じつは設計段階で最良のピッチは決まってしまうものです。製作家が想定したピッチより半音も上げたり下げたりすると、張力がかなり変わって、全然違う音色になってしまいます。
でも、それを承知で変える楽しみはありますね。
八百板先生、お久しぶりです。最初このブログを読み始めた時、以前の”蚊の話”を思い出しました。でも”オニヤンマ”はきっと、先生のチェンバロと一緒に合奏したかったのだと思いました。絶対音感の話が出てきましたが、私も似たようなところがあって、最近、短(長?)2度程ずれているのを経験しています。昔は何が出来なくても、聴音だけは(人と比べても)かなりしっかりしていたのを覚えています。年を取ったからかなあ、と思っていたのですが…。久しぶりにこんな話が出来ました。ありがとうございます!
久しぶりにコメントをいただけて嬉しいです。
オニヤンマと合奏なら、オニヤンマに16フィートのオルゲルプンクトを奏でてもらってパストラーレとか。音量の釣り合いを取るにはクラヴィコードがあるといいですね。
😊。
バロックリコーダーもチューニングが少し低いようですが、チェンバロもなのですね❗️
ありがとうございます。
リコーダーはピッチが半音下がるだけでもとても落ち着いた深い響きになりますね。
音感の優劣度をピッチに対する聴覚で測るのは全く莫迦げた愚行である、というのが経験から至った結論です。以下、決して自慢話では無きこと前提と、語り出すと膨大な事態になるので極くかいつまんで。
私は聴音(ソルフェージュ)の訓練をしたことが皆無です。だから音の高さを言い当てることは(多分)完璧には出来ない。
が、音源を聴けば、和音の持つ響きの個性から何調かはほぼ100%当てられます。それも若い頃はピアノだけだったが、様々な編成での演奏体験の積み重ねで、現在は管弦楽でも相当な精度で当てられるようになってきました。
何故か?それは現在のクラシック(に、限らずポピュラー音楽も当然だが)音楽が、基本的に平均律で演奏されるから。
平均律とは、本来固有に持っている調性の響きを同一にする、という思い込みが先行している。
が、実は逆で、様々な体型の学童に学校の制服を着せるようなもの。故にかえって制服が「似合う・似合わない」のような個性が浮き彫りになってくる。
特にピアノは非常に顕著に表われる。
歴史的なピアノの名曲に変ニ長調と嬰ハ短調が著しく多いのは、ピアノを熟知した作曲者たちは、それが一番ピアノにとって美しい響きであると確信しているから。
ベートーベンは月光ソナタを作った時、まだかなり正しく聴覚が機能する時もあったのでしょう。だから嬰ハ短調を選んだ。
おっと横道に逸れました。つまり私の場合、和音の音色感が記憶されているのであり、高低なんか分からなくても、コピーリーディングは絶対音感の持ち主と同等に出来る自信があります。
てか、音程は100%当てられるのに、和音の音色を聴き分けられないピアノ奏者が相当数いる現実の方が不思議でなりません。
追記.音響技術の高度化により、我々の感覚を歪ませる様々な事態も起きています。
ホロビッツが弾くタウジッヒ編曲の軍隊行進曲は、変ニ長調なのにニ長調に聞こえる。推するに、遅いテンポで弾いた音源を早弾きに仕上げるよう再生速度をあげ、かつピッチを元の調性になるよう修正した結果の産物ではないかと考えてます。
コメントありがとうございます。
すごいですね! 芹澤さんがお持ちのその能力は私には無いものですよ。どうぞ誇りに思って下さい。
八百板先生
芹澤です。
いいえ。
全然誇りになんか思えません。和音の個性を感じ取れる感性無くば、作曲家は今から作ろうとする曲の調性を決定することさえ出来ず、という事は何時まで経っても創作に取りかかれないはずです。
私が何を言いたいかというと自分の能力のことでは無く、昨今の音楽教育のスタンダードと、オーディエンスの音楽知識のヨコシマさを問題視したい。
絶対音感は「絶対的に」音楽の本質的な能力とは無関係です。なのにこればっかりクローズアップされる。
人は鍵盤奏者と知るや、「じゃあ、あれ弾いて之れ弾いて」とねだられますよね。先生も何時ぞや(Maybe私の比じゃない程)チェンバロで歌謡曲弾いて下さい、と仰せでした(笑)。で、応じると殆ど演奏終了後、殆どテンプレートで
「凄い、どんな曲も瞬時に弾けるんですね。絶対音感あるんですね」
と付け加えてくる。無いよ、んなもん。曲の和音が醸し出す個性に基づいて鍵盤を探っているに過ぎません。
だいたい「絶対音感有るんですか?」って、それこそ他の楽器奏者には問う事はありません。絶対的ピッチを要求されるのは、むしろオーボエでしょう。そちらに尋ねてくれ!
何故、こんな莫迦げたムダ知識ばかり横行するんでしょう。こんなのに惑わされずに、ただ素直に腰を据えてバッハやモーツァルトに
触れれば良いのに、と、思わずにはおれぬのです。
私が思うに、これは結構根が深いかもしれませんよ。
「絶対音感は生まれ持った才能らしい」そして「絶対音感がある人だけが素晴らしい音楽をできるらしい」けれど「私は絶対音感を持っていない」だから「私が素晴らしい音楽をできないのは私の責任ではない」
という論理で自己正当化できるからです。
もちろん、その論理は認識していないでしょうけれど。
絶対音感信仰を広める側も悪いですが、受け取るほうも自分の利益になるから喜んで受け取っている、という図式です。
この種のすり替えは、あらゆることに横行していますよね。
「自分は地方で生まれ育った。だから今の自分が不幸なのは自分の責任ではない。」
「自分の親は金持ちでなかった。だから今の自分が不幸なのは自分の責任ではない」
責任の放棄は一見楽に思えるからみんな飛びつきます。
でもその陰には「自分にはどうすることもできない」という無力感が待ち構えています。
本当は自分の心掛け次第でどうにでも結果を変えられるんですけれど、そのためには一旦すべての責任を自分で負わなければなりません。
「自分の身に降りかかることは全て自分の責任だ」といい切れる人にだけ、音楽の女神は微笑むんだと私は信じています。もちろん大変なことですけど。
ひゃ~親ガチゃみたいなすごい話に。。。でもよくわからないですね、ピアノを習うならいまのポーランドなんて多分だめじゃないか(コロナ前にワルシャワのピアノ店や学校をみた印象から)、いろいろ限界はあるにしても日本のほうが勢いがあるぞ(逆に柔道なんか日本よりもたとえばフランスのほうが人数はすくなくとも多い)、天命はどこにめぐるかわからない。。。なんて思っています。
調についてはスマホアプリのハヤえもんが速度だけじゃなくて調も微妙変換してくれて、ほほーと楽しんでいます。
「天命はどこにめぐるかわからない」ですね。その天命は、でも状況のせいにしないで前向きに努力する人の所にしか来ないのでは、と私は思っています。
ベトナム戦争でピアノがない中で、紙に書いた鍵盤で練習したダン・タイ・ソンの話なんかは、「よし、私も頑張るぞ!」という気にさせてくれます。
芹澤ヨシノリ 様
ショパンのピアノ曲に変位記号の多い調の曲が多いことについて、
ショパンの時代の不等分律では調性格がはっきりと表れること、
フランス流のピアノ奏法では変位記号の多い調の方が(ハ長調より変ニ長調の方が)演奏しやすいことを
八百板さんから以前に私信で教示をいただいたことがあるのですが、
現代の平均律でも、ピアノでは調性格が顕著に表れることは、初めて知りました。
>遅いテンポで弾いた音源を早弾きに仕上げるよう再生速度をあげ、かつピッチを元の調性になるよう修正した結果の産物
カラオケのキーを、歌う人の声域に合わせて変えるような話ですね(笑)
Y.M様
ショパン&シューマンに比べてメンデルスゾーンがピアニストたちに好まれないのは、彼の選択調が#3つの、長調はイ長調、短調が嬰ヘ短調だから。
これは弾きにくいのに加えて、平均律では非常に堅い響きなのを、奏者が無意識に感じ取るから、と確信します。
(ピアノ)作品の出来が劣る訳でもないのに、随分ワリを喰っていて一見気の毒な気もします。が、私はそれも作曲家のセンスと能力のひとつと捉えます。
ショパンとシューマン。この二人が先天的に持つ創造性は、音楽的能力というよりも、センスの鋭敏さではないか。
だから全ロマン派作曲家の中で、抜きん出て愛される資格を持つのです。
芹澤ヨシノリ 様
リスナーとしては、ショパン、シューマン、メンデルスゾーンのピアノ曲はどれも
「いい曲だな」と感じるのですが、「弾きにくい」というようなことは
実際にピアノを弾いている人ならではの意見ですね。
貴重なご教示をありがとうございました。