置かれたところで咲く(写真付き)
私のお城「見附チェンバロスタジオ」にて。18年物のニオイスミレの植木鉢から種がこぼれて、コンクリートの隙間に根を下ろして、季節はずれの蕾を付けました。
根を下ろしたのがコンクリートの隙間なので、夏場の炎天続きでも水をやることができなくて、何度も枯れたんです。それでもその都度復活しています。すばらしい生命力ですね。見ていると「私も頑張ろう」という気にさせてくれます。
昨年の秋、山形県鶴岡市で活動する朗読の会に呼んでいただいて、朗読とチェンバロの催しをおこないました。そこで朗読されたのが渡辺和子著「置かれた場所で咲きなさい」という本からの抜粋でした。このスミレの蕾を見て思い出しました。
このスミレは、たまたま種が落ちたのがコンクリートの隙間だったけれど、文句ひとつ言わないで頑張って花を咲かせようとしています。いや、頑張ってなのか楽しんでなのか私には分かりませんけれど。それでも、種が落ちたのがもう少し横に外れたら、コンクリートの隙間に入ることなくそのまま雨に流されてしまったでしょう。むしろ幸運だったといえるでしょうか。
今私は11月6日のコンサートに向けての練習を加速させています。久しぶりのチェンバロ独奏のコンサートです。
ヨーロッパの古い宮廷音楽を、21世紀の東洋のはずれの日本で、しかも東京ではなく新潟県で、しかも県庁所在地ではなく見附という所にあるスタジオで弾いています。もちろんここは宮廷でも何でもありません。考えてみれば不思議な気もします。
何だかスミレがコンクリートの隙間で咲いているのと似ていなくもありません。花が「置かれた場所で咲く」なら、私は「置かれた場所で弾く」ですね。このスミレが幸運なように、やはり私も幸運なんだと思います。今までの人生の何が一つ欠けたとしても、今こうしてチェンバロを弾くことが叶わなかったんだと思うと、これは幸運以外の何物でもありません。この感謝の気持ちを抱きながら練習すると、どの音も、どの旋律も、どの和音も、とても大切なものに思えます。そんな気持ちをコンサートでお客様と分かち合いたいです。
追伸
11月6日のコンサートについてはこちらをご覧下さい。
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昨日はありがとうございました。スミレを見つけないで帰り残念に思っています。
何年前か覚えていませんが「置かれた所で咲きなさい」という渡辺和子さんの言葉を最初に知った時は
大変感動しました。
先生は「置かれたところで弾きなさい」とおきかえられたのですね!
考えてみたら私はまだ何にも置き換えていませんでした。ただただ感動していただけでした。
素晴らしい考えですが少し寂しい感じも受けています。神様が見ておられると考えられたら
いいのかなと思いますが。
コメントありがとうございます。
神様でなくても、誰かが必ず見ているのだと思いますよ。ただ「私が見ているから元気を出して!」と言ってくれるわけでないので気がつかないだけで。
またきれいな写真、ありがとうございました。(゜))<<。
ありがとうございます。コンクリートや瓦礫などが醜い分、スミレの美しさが対照的とは思います。でも写真として美しいかどうかはちょっと・・・。
ごつごつした岩(瓦礫?)もいいなあ、と思いました。
家合さんのコメントを読んで写真を上の部分から順々に下げて見ていたら、最初はバス、次はテノールやアルト一番下のスミレはソプラノのように思われました。それぞれの部分が落ち着いた色合いで一枚の写真を構成しているように見えてきました。それぞれの部分がきれい美しいから合唱が美しく響くのとおなじように。
ああ、そんなふうに見てくださるのですね。この写真に関しては全くの偶然の産物ですが、受け取る方の心次第で美しく感じてくださるとは。