直感で捉える

完全に娘に負けました!

日曜日の午後に、お天気もいいので、小4の娘と自転車で少し遠くにある公園にスケッチに行ったんです。たいした距離ではないのですが、水筒とお菓子と敷物とスケッチ帳と色鉛筆を持って出かけました。芝生が美しい公園に着くと、さっそく描く対象を決めて敷物を敷きます。スケッチの対象は、一面の芝生とカラフルな滑り台などいくつかの遊具、そしてすぐ背後の森です。

娘は絵を描くのが大好きで、近所の絵画教室にも通わせていますが、とにかく描くのが速いんです。私がまだ森の木々を半分くらいしか描いていないうちに娘の絵は完成しました。

で、見比べてみて唖然としました。完全に私の負けです。

 

娘の絵は、背後の森に比べて目当ての滑り台がすごく大きいし、その横でサッカーボールを追いかける男の子に至っては巨人のようです。投影法の規則からすればメチャクチャです。でも、どこを見ても楽しいし、いつまでも見ていたくなるし、見ているとつい口元が緩んできます。

それに比べて私のは、まるで設計図です。たしかに物の大小関係は正確です。色も、一生懸命それらしい色を色鉛筆で出そうと努力はしました。でも、線の一本一本が死んだように止まっているし、そもそもどこを見たらいいか分からない、背後の森しか目に入らないつまらない絵なんです。

 

絵画教室の先生が娘のことをこう表現していました。「対象を一目見ただけでそれを自分の心の中に取り込んで、心の中で再構成して、もう始めから心の中に絵が完成しています。あとはそれを順に描いていくだけなんです。」

どうりで、娘が描くのが速いわけです。描き始めたらもう対象を見ていないんですから。

それに対して私は、物の形や位置関係といった外見に完全に囚われています。外見を忠実に写したつもりなのに、だからつまらない絵になっているんです。

 

対象を直感的に心で捉えるのか、理屈で考えて頭で捉えるのか。

言い換えると、創造的な右脳で捉えるのか、論理的な左脳で捉えるのか。

 

理屈や論理の良さは、そこそこ高いレベルに達する過程を整理して近道を示してくれることです。大抵のことはそうやって効率よく習得することができます。学校教育をはじめ、習い事なんかもみんなそうですよね。

でも、それ以上の「最高のレベル」を目指すには方法を変えないといけないんです。

論理的思考の極致とも思われる囲碁や将棋の世界でも、達人になると「直感が頼り」だそうです。盤面が直接「ここに打て」と訴えてくるんだそうですよ。

 

では音楽ではどうなんでしょう?

私は、自分の音楽のこれまでの長い遠回り、そしてこれからも続く無限の道のりを、「音符の外見への囚われから、どれだけ自由になれるか」の旅だと思っています。作曲家の頭の中には、完成された理想の音楽が鳴り響いていたはずです。それを、音符という記号を通してしか残せないから仕方なくそうしたのです。

だから、1拍の中に16分音符が4つあれば、それらを均等に4等分して演奏するべきではないんです。人間は自然の一部なので、4つの16分音符も自然界の事物のように曲線を帯びていてこそ、人間は「美しい」と感じるのです。

 

そうは言っても、始めのうちはなかなか大胆に揺らす勇気がありません。感銘を受けたCDから学ぼうと「この音からこの音まではこんなふうに加速するのか。この音でこんなに長く留まっていてもいいのか。そこから、こんなに大胆に転げ落ちて、最後にはこんなに大げさに遅くなって、それでやっと自然な曲線に感じるのか」と、始めはしっかり理屈で処理します。

それがだんだん自分のものになっていき、いつのまにか理屈で考えなくても自然に表現できるようになっていきます。そうやっていろいろなパターンを一つ一つ理屈から感覚へと落とし込んでいきます。

私はいまだにその作業の途上ですから、半年前に弾いた曲でさえ、もう表現が変わってきています。きっとこれは生涯続く終わりの無い作業になるのでしょう。

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