右手と左手が合わない!(ビデオ付き)
私はバッハの楽譜が難しくて「右手と左手が合わなくて困っている」のではありません。バッハの意図を汲んでわざと「右手と左手を合わせないようにする」のです。
世の中で「バッハ」というと、何でも真面目にかっちりと理屈で固めて、感情を表に出すべきでない、なんて思われているふしもあるようですが、とんでもない! 今日はその正反対の例をご紹介しましょう。
あなたは「テンポ・ルバート」という音楽用語をご存じですか? 独唱者や独奏者(ピアノ独奏なら右手)が感情豊かに歌って、メトロノームの拍から大きくずれる、あれです。そんなとき、伴奏者(ピアノ独奏なら左手)は、独奏のテンポ・ルバートにぴったり寄り添って、一緒に拍からずれてあげます。
ところが、ところがですよ、バッハの時代はそうではなかったのです。独奏者は拍から大きくずれて歌うのに、伴奏は構わず一定のリズムで演奏し続けていたんです。信じられますか?
突然ですが、あなたは演歌は聴きますか? 日本の演歌を聴くと同じことをやっていますよ。伴奏は一定のリズムなのに、演歌歌手は感情がこもるたびにすごく音を伸ばしたり遅らせたりして、しょっちゅう伴奏からずれるでしょう?
私は一度、興味本位で演歌の楽譜というものを楽譜屋さんで立ち読みしたことがあります。それを見て驚いたのですが、あの伸縮自在で全然伴奏に合わせない歌の旋律が、楽譜ではきっちり伴奏と同じタイミングで歌うように書かれていたんです。
「この楽譜どおりに歌ったんじゃ、全然演歌にならないよなあ。もし何百年後かに演歌の楽譜だけが発見されたとして、この楽譜どおりに歌われてしまったら台無しだよなあ」なんて思ったものです。
それと同じことが今バッハについて起こっているんです。
この、バッハの時代のテンポ・ルバートの弾き方については、学問的にはもうとっくに結論が出ていることです。良心的な演奏家の中には勇気を持ってこれを実践している人もいます。
でもやっぱり圧倒的に少数派です。なぜなら、とても弾きにくいから。そして、そのように弾いても聴き手に「そんな変な演奏は聴いたことがない。おかしい。私は聴きたくない。」と言われてしまうから。
私ですか? 私は勇気を持って実践しますよ。一度しかない人生ですから、妥協しないで正しいことをつらぬきます。
では、先日収録したばかりの演奏をお聴き下さい。所々、ついうっかり左手が右手に付き合ってルバートしてしまっていますが、それでもずいぶん頑張ったんですよ。
こんな演奏は聴いたことが無いでしょう? でも、きっとこれが21世紀の常識として受け入れられる日が来ると信じています。
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おはようございます。
3年前の「ああ福音史家の伴奏!」の記事に
>聖書の朗読は場面によって速くなったり遅くなったり突然止まったり叫んだり息をひそめたり。それと完全に同期して和音を奏でるのですから、
>歌手の楽譜は一応8分音符や16分音符で書かれていますが、それはほんの基準であって、実際にはドイツ人がドイツ語を朗読するときのような伸縮自在のタイミングで語られます。
とありましたが、バッハの作品は曲によって、ルバートしても良い、むしろルバートすべき曲と
ルバートしてはいけない曲があるのだろうな、と思いました。
そうですね。
ルバートしない曲の代表格は行進曲です(それでも本当にメトロノームどおりだととても歩きづらいですけど)。
協奏曲のトゥッティもルバートしませんね。
テンポの速い舞曲もそうですね。
そして大抵のフーガもそう。
もっとも、それらにしても「原則としてルバートしない」というだけですけど。
ちょっと勘違いしていたようです。
福音史家のレチタティーヴォは、楽譜に8分音符で書いてあっても、
ドイツ語で朗読する時の強弱や抑揚、単語の表す感情に基づいて、
長くなったり短くなったり、まさにルバートしていて、
それと完全に同期して伴奏のチェンバロとチェロが演奏する、ということで、
チェンバロの右手が左手に関係なくルバートする、ではなかったです。
協奏曲のトゥッティと大抵のフーガは原則としてルバートしない、ということは
協奏曲のソロ(特にカデンツァ)や、フーガの中にある即興演奏的な部分
(無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番や、リュートのためのBWV998のフーガ)では
存分にルバートすることで、ルバートしない部分との対比をよりはっきりさせる
ことが、バッハの時代の演奏習慣、バッハの意図だったのだろうと思います。
そうそう、おっしゃるとおりですね!
とても興味深い内容でいつも参考にさせたいただいてます。
気になる所があるのですが、ルバートはフーガの主題部分には適用したら駄目なのでしょうか?
チェンバロでは大事な音は一瞬遅らせると聞いたことがあるので、フーガの主題にルバートを使うものだと思っておりました。
コメントありがとうございます。
フーガの主題はもちろん大事な音です。
ただし、大事な音を強調する方法にはいろいろあって、「どういう感じに強調するのか」によって使い分けます。
フーガの主題のように、何度も何度も繰り返されるものは、アーティキュレーションや装飾音によって際立たせることが多いです。
それに対してルバートは、意表を突いた肩透かしとか、上昇音型の頂点でふっと緩むとか、私は一度限りの表現に使うようにしています。
わざわざ返信して下さり有難うございます!
バッハの曲でテンポが揺れたり間があると典雅な響きがあって素敵ですよね。
https://youtu.be/vV32HqkXPoU
こちらの方の未完のフーガの演奏はどう思われますか?
八百坂先生の仰るテクニックが使われててとても聞いてて心地よいです。
こういう曲を弾くのは、とても難しいんです。
どの声部も重要なので、どこか1ヶ所を変にルバートすると、他の声部の美しさが損なわれます。
かといって、何もしないと機械のように無味乾燥になってしまいます。
ご紹介下さった演奏は絶妙な揺れがすばらしいですね。
ご返信有難うございます。
四声フーガは他の声部も聞かせてあげるのが至難でとても苦労します。
特に高音部に主題が現れるところでは、サウンドピラミッドを意識した低音部の旋律との兼ね合いが悩ましいです。
なおさらルバートもきちんと配慮して入れてあげないと駄目だと、とても勉強になりました。
それにしても揺れるリズムを持った演奏が少ないのはとても勿体ないように思えます。
八百坂先生の旋律のようなバッハは幽玄さが垣間見得てとても好きです。
最近の古楽奏法を意識した高橋悠治さんのバッハ演奏やこの未完のフーガを演奏しているKenneth Wiessさんのテンポの評判がよろしくないあたり、
今のところ聴衆にも受け入れる素地がないので仕方ないのでしょうが。
揺れる演奏が少ないのは、いろいろな原因があるようです。
「最新の研究成果に聴衆が付いてこられない」というのは、ある程度は仕方がないことでしょう。時が解決してくれるのを辛抱強く待つことですね。
音楽家として許せないのは、「揺らさない演奏をする師匠や大家の手前、違うことをするのは得策ではない」という保身です。
あと、「揺らさない演奏が通用するなら、そのほうが楽だ」という手抜きもですね。
高橋悠治のゴールドベルグがまさにこれですよ。
そうなんですね。情報ありがとうございます!