批判を受けるのは覚悟していました(ビデオ付き)

やっぱり批判を受けてしまいました。公開したばかりのビデオに、いきなり「低評価(下向き親指マーク)」が付いたんです。

今まで自分の演奏のビデオを80本以上YouTubeに公開してきましたが、チェンバロ独奏のビデオにいきなり低評価が付いたのは初めてのことです。

曲はバッハの平均律クラヴィーア曲集第2巻から、イ短調の前奏曲です。ほぼすべての部分が二重三重の半音階で埋め尽くされた、ものすごく特殊な曲です。バッハのすべてのチェンバロ曲とすべてのオルガン曲を見渡しても、これほどの密度で徹底して半音階を使った曲は数曲でしょう。

私の演奏ビデオをご覧になって下さる方ならお気付きと思いますが、私は「半音階」「増音程」「減音程」といったものを平然と通過することができません。必ず、悶えるか、淀むか、あっけに取られるか、いずれにしても何かします。それは、バッハの時代にはこういったものが「原則として作曲の規則違反」であって、作曲家はよほど特別な何かを表現する時にだけ使ったからです。

いつもなら、そういった規則違反のところを私が悶えたり淀んだりすると、それがスパイスとなって曲に変化が生じて、曲の美しさが逆に際立つのです。でも、この曲ではどこもかしこも苦しくて、弾いている私自身気が滅入ってしまいそうです。寿命もいくらか縮んだかもしれませんよ。 この曲をそんなふうに弾く奏者はほとんどいない、というか、全然いないのかもしれません。

一方で、世の中に出回っているピアノ用に校訂された楽譜では、あらゆるところにスラー(バッハはもちろん書いていません)を追加しまくって、美しく流れるように演奏することを指示しています。なのでピアニストたちはこの曲を、そういう楽譜どおりに美しく流れるように弾いているのです。

私だって試みてはみたんですよ。もっと普通に弾くことはできないかと。でも結果は、ただ音楽が薄まっただけでした。私もあと50年くらいすると円熟して、表面的には自然でも中身は苦しみ悶えまくる、という高尚な演奏ができるようになるのかもしれませんが、今はまだダメみたいです。素直に感じたとおりに弾くしかありません。

今、古今の名演奏が無料で聴き放題という便利な時代になりました。こんな時代だからこそ、私は批判を受けることになってでも自分の信じるところに従って演奏したいのです。誰からも低評価を受けない(無難な)演奏は、誰からも高評価を受けない(つまらない)演奏だと思っています。

もちろん、今の自分の解釈がとんでもない勘違いなのでは? という不安はいつも抱えています。でも、そういうことも全部含めて、一生かかって音楽的に向上していけばいいんだと思います。一度しかない自分の音楽人生なんですから。

では、その問題の演奏をお聴きいただきましょう。

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批判を受けるのは覚悟していました(ビデオ付き)” に対して16件のコメントがあります。

  1. Y.M. より:

    おはようございます。
    この曲は私も、有名なチェンバロ奏者のCDを持っていて、何度も聴いていますが、
    聴いていて胸の奥が苦しくなったのは、八百板さんの今日のビデオが初めてです。
    いえ、決して悪い意味ではないですよ。
    半音階で埋め尽くされたこの前奏曲と、この曲と対になる、十字架で埋め尽くされたフーガには、
    表面的な美しさとは縁の遠い、しかしバッハの心の底からの叫びが聞こえる気がします。
    それを感じ取って表現する演奏者にも、演奏を聴いて心で受け止める聴衆にも、心の準備を要します。
    この曲は「演奏者を選ぶ音楽」であり「聴く人を選ぶ音楽」でもあると思います。

    1. Y.M. より:

      関連記事に挙がっている「バッハのフーガを埋め尽くす十字架(2019年5月9日)」から
      引用させていただきます。

      >音楽は、単に癒しのメロディーで耳に心地よいだけではないと思うんです。たぶん、喜怒哀楽を始めとしてあらゆることが音楽に託されているのでしょう。今の私は「胸が苦しくなる」くらいのことしかはっきりとは分かりません。でも、練習していて気持ちがいいわけではないのにこの曲に引き付けられるのは、バッハがもっと高い次元の何か大切なことをこの曲に託したからなのでしょう。

      まさに、その通りだと思います。

      1. 八百板 正己 より:

        ありがとうございます。
        「聴く人を選ぶ音楽」ですね。バッハは万人受けを狙ってこの曲を書いたわけではないという事ですね。それでも私は、聴く人の心の持ち方次第で、こういった曲からバッハのメッセージを受け取ることはできると信じて、そのことをお伝えし続けているんです。

  2. 国枝直子 より:

    半音階、増、減音程は本当に痛みを感じますね。ふつうに通り過ぎることはできません!
    身体に響く演奏でした。
    先生の記事を拝読して、モンテベルディのセカンドプラティカを思い出しました。

    1. 八百板 正己 より:

      コメントありがとうございます。
      モンテヴェルディのセカンドプラティカ。バロック音楽が劇的に幕を開けたそのころの音楽をよく知ると、バッハが言おうとしていた事も受け入れられるようになりますね。

  3. 佐藤 正樹 より:

    勿論、気にする事では無いですね!

    1. 八百板 正己 より:

      ありがとうございます!

  4. Y.U より:

    チェンバロのこともバッハのこともあまりよく知らないただの音楽好きですが、演奏聴かせて頂きました。悶える!本当にそうですね。心に響きました。これ、掛け値無しに忖度抜きの、ただ、思ったこと、感じたことだけです。この方向性、支持します!

    1. 八百板 正己 より:

      ありがとうございます。
      「心に響く」そのお言葉が一番嬉しいです!

  5. 星野裕子 より:

    (私がこんなコメントを書いていいのか分かりませんが)
    半音階のほとんどが、下降していて、(たまに上昇するのもありますが、喜ばしい雰囲気ではなく、対になっている声部にも、ちょっと引っ掛かるような感じがありますね) 聴いていてやっぱり、悲しみや苦しみを暗示させる気がします。

    今、ちょっと思い出したのですが、「ヨハネ受難曲」で、イエスが捕まったあと、弟子のペトロが「自分はイエスなんか知らない」と思わず言ってしまった後に、後悔して泣く場面で、福音書記者の歌詞の「泣いた」という単語に、八百板先生が弾かれた曲のような、下降半音階のメロディーが付けられていますね。半拍遅れてくる伴奏のリズムも同じような感じです。
    (確認のため、手持ちのヨハネ受難曲のCDと、磯山雅著 「ヨハネ受難曲」筑摩書房刊 p246~248を見て(聴いて)みました)
    素人の連想なので、直接関係あるかどうか分かりませんが。。。

    youtubeを開いてみると、下向き矢印もありますがひとつだけ、それより上向きの方が多いです! 分かる方は分かって下さっておられると思います。👍️

    1. Y.M. より:

      星野さんが指摘された「ヨハネ受難曲」の箇所は、ヨハネ福音書の
      「ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。」の後に、マタイ福音書の
      「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」が挿入されている箇所ですね。
      もっと後の「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」の後に
      「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに割け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」が挿入されている箇所と同様、
      ヨハネ福音書に基づく受難曲の中に、マタイ福音書の最も劇的な場面を挿入した
      バッハの創意工夫に、何度聴いても感嘆させられます。

    2. 八百板 正己 より:

      星野様、ご丁寧なコメントありがとうございます。

      ヨハネ受難曲のその部分も本当に苦しいですよね!
      鍵盤楽器演奏を職業とする人々も、もっと受難曲などを聴いて、バッハを総合的に捉えてほしいと思います。そうすれば、半音階や増音程、減音程などをサラサラと流して弾くことなんてできないと思うんです。

      1. 星野裕子 より:

        Y.M.様、八百板先生、お返事有難うございました。
        随分前に、新潟バッハ管弦楽団&合唱団の皆様が、ヨハネ受難曲の全曲演奏会をなさっていて、ご指導されている八百板先生は、良くご存知と思いますので、私がわざわざ書くのもどうかな、と思ったのですが。。。
        Y.M.様が書かれた、「神殿の幕が裂けた~」の場面も含めてですが、私が上げた磯山雅先生の「ヨハネ受難曲」p247に、「「目に見えるかのように聴かせる」という、バロックならではの修辞的感情表現」という言葉があります。

        1. 八百板 正己 より:

          私のことをお気になさらず、何でも書いてください!
          コメントをいただけること自体が嬉しいことですから。

          おっしゃるように、修辞的表現のことを知るとバロック音楽の味わい方がぐっと深まりますね。

  6. aoki より:

    念のためリヒテルときき合わせてみましたが、別に批判されることはなくて、こういう解釈だ、とくに古楽器だし、というわけで、わたしなら全然スルーというか。。。

    バッハをやさしくたのしく(ひと昔まえのフランスのswingle singerなんか)なんて試み(自分はそれをしたい)、全然だめじゃんこういう人にかかってはともおもったりしました。仕方ないと思います。ひとさまざまですし、きっとコロナでいらいらしていたのでしょう。

    1. 八百板 正己 より:

      どうもありがとうございます! 勇気をいただきました。

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