解放感と喪失感
かれこれ3ヶ月くらい毎日バッハのことを考えて、歌って、聴いたりしていたので、終わってしまった今、解放感と喪失感の両方を味わっています。
先日、山形県酒田市の教会でのオルガンコンサートでご一緒した、ソプラノの長谷部和子さんからのお便りにあった言葉です。今回のプログラムでは長谷部さんに歌っていただく部分は全体の3分の1くらいしか無かったんですけれど、こんなに大切に思っていただいていたんですね。感激です!
まず「3ヶ月くらい毎日バッハのことを」という部分。3ヶ月毎日とえば、1年の4分の1ですよ。地元では知らない人がいないというくらい名の知れた歌手でいらっしゃるのに、ひとつのコンサートのためにバッハにそこまで本気で関わってくださったとは。
それから「解放感」という部分。つまりそれまでの3ヶ月は解放されていなかった、バッハに閉じ込められていた、という感じでしょうか? コンサートで本格的にバッハを歌うのは初めてとおっしゃっていましたから、きっと私には想像もできない苦労がたくさんあったのでしょう。
それなのに「喪失感」という言葉です。苦労がたくさんあったのに、その苦労をじつは求めていた、ということでしょうか? 現代の、少しでも楽をして効率的に、という悪しき風潮とは正反対です。志の高い音楽家にとっては、苦労も喜びとなるのです。
この「喪失感」という言葉を目にしたとき、とっさに私は「そんな大げさに考えなくたって、いつでもバッハを歌えばいいじゃないか」と思ってしまったんです。私はいつもいつもバッハ漬けですからね。でも、考え直しました。こんなに立派に歌える方が、今までコンサートで本格的にバッハを歌う機会が無かったという事実。放っておいたら、次にバッハを歌える機会はいつになるのか、もうバッハとは縁が無くなってしまうのではないか、そんな不安の裏返しなのかもしれないと。バッハを歌いたいと思っても、誰かがチェンバロやオルガンを弾かないことにはコンサートは成り立ちません。そしてチェンバロやオルガンでバッハを日常的に演奏する鍵盤楽器奏者は地方では稀な存在です。
私がコンサートの企画をするときには、お客様に向けてバッハなどバロック音楽の素晴らしさをお伝えすることを第一に考えてきました。でも同時に、一緒にステージに立つ共演者にもバッハの素晴らしさをお伝えし、またバッハを演奏する貴重な場を提供することにもなっていたんだと気が付きました。
長谷部さん、これからも2人で力を合わせて、バッハをいっぱい演奏しましょうね。お便りの最後に「またお会いできる日が来ますように」とありましたが、チャンスは待つものではなく、作るものですよ。早速ですけど、今年の秋や冬のご予定はどんな感じですか?
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おはようございます。
もし可能ならば先生がチェンバロをいつものように車に積まれて酒田キリスト教会に行かれればオルガンとチェンバロの伴奏で長谷部さんがうたわれますよね?
あの日教会の前に停まっていた先生の車を見て、今日はカラッポなのかな?と思いました。
夢のような虫のいい話ですが。演奏者のご苦労を顧みず勝手な想像をしています。
実現すれば素晴らしいです!
コメントありがとうございます。
私がチェンバロを積んで酒田に行けば、また新潟から聴きに来ていただけるのですか? 嬉しいお言葉です!
可能ならば。オルガンとチェンバロと歌等を聴きに行きたいと思います。
私の稚拙な文章を紹介していただきありがとうございます。
バッハに閉じ込められていた、と言うよりも、バッハについては不勉強だったので少しでも近づきたくて自ら囚われの身になった、というようなイメージです。 私の日常は育ち盛りの子供が3人もいますので家事育児、教室経営、などに忙殺されています。いかに自分の練習時間を確保するかは日々の戦いのようです。
秋頃でしたら、時間あります。是非よろしくお願い致します(๑˃̵ᴗ˂̵)
勝手にお便りを引用してしまいましたが、ぜひ皆さんにもご紹介したい内容でしたので。
「自ら囚われの身になった」とは、なおのこと高い志! お忙しいのに。
今年の秋頃、早速アイデアを練り始めましょう。
補足を。バッハで一番好きな曲は、マタイ受難曲のErbarme dich.mein Gott です。
ヴァイオリン奏者を探して仲間になってもらえば演奏できますね。夢は広がります。