教えることで教えられる

本当に、何かを教えることで一番勉強になっているのは教える側なんだと実感しますね。

例えば生徒さんが手に力が入った状態でキーを叩いて、雑音交じりの音で弾いているとしましょう。そんな時、口では「そう、そこは難しくて力が入りやすいんですけど、思いっきり脱力してみましょうか。寝ているときにはこんな風には指が捻じ曲がっていませんよね。」などと言いつつ、内心「ああ、自分でも完璧にはできてないよな」と反省することしきり。

生徒さんは、私がよくできていないことを5倍10倍と拡大して見せてくださいます。私が一人で練習していたのではつい見過ごしてしまうようなことに、たくさんたくさん気付かせてくださいます。

気づかせてくださるだけではありません。どうすれば良くなるのか、その解決方法についても考えるきっかけを与えてくださるんです。「こうやって直してみましょう」と提案した方法で、生徒さんがかえって苦しむようなことになってはいけません。本当のところ何が根本原因なのだろう? 以前別の生徒さんには別の説明をしてあまり効果が無かったけれど、この説明ならすぐにできるようになるかな?

今、私の頭の中は「練習法」のことでいっぱいです(本を出したばかりですからね)。これについても、本を書きながら「ああ、自分でもできてないよな」の連続でした。考えを文章にするって、威力がありますね。自分が書いた文章から逃げも隠れもできませんから。でもおかげで、昨年の秋ごろからの怒涛の過密スケジュールをどうにかこなせています。

そうそう、「練習法」ということで、ちょっと自慢になってしまうのですが聞いてください。最近のレッスンでは、生徒さんが弾くのに苦労している所があると、私が見ている前でできるだけ短い範囲を切り取ってゆっくり繰り返し練習してもらっています。ゆっくり繰り返し弾いていると、何回か弾いているうちに「あ、今自分の中に音楽が入った」と思える瞬間が来て、それがそのテンポでの繰り返し練習を終える目安なのです。聴いていると、生徒さんが弾く音が突然美しくなる瞬間があるのです。そこで「今、音楽が体に入った感じがしたでしょう?」と尋ねると、そうだという答えが返ってくるのです。大脳で(理屈で)指のことを考えなくても弾けるようになる、言い換えれば無意識でも弾けるようになると、音色までが変わるんですよ。

ということは、私がコンサートで練習不足のところをちょっと焦りながら弾いているときには、音が汚いっていうことです。これは大変! 音を間違えなければ済むという問題ではないんです。自慢している場合ではありませんでしたね。

追伸:

「短い範囲のゆっくり練習」「今自分の中に音楽が入った」についてもっと知りたい方は、書籍「超効率バッハ練習法」のページをご覧ください。

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教えることで教えられる” に対して7件のコメントがあります。

  1. 畠山 トシ より:

    おはようございます。3月20日更新のブログを読んでいます。

    先日の自分のレッスンを思いだしています。もう一度同じレッスンをうけることは不可能ですけれどこの文面から指導していただいたことを繰り返すことができるように思いました。以前からこんな記録があればよいなあと思っていました。教えていただいたことを記録していた時もありましたが、音は消えてしまうのでなかなか難しかったです。大変ありがとうございました。また後でよみかえします。

    1. 八百板正己 より:

      畠山さん、さっそくのコメントをありがとうございます。

      畠山さんのレッスンでも、短い範囲を繰り返していただきましたね。他の皆さんも同じなんですよ。すごく上手に弾ける方でも、そういう方には私の要求も高度になりますので、やっぱり一小節とか、一拍とかをゆっくり繰り返していただいています。

      確かに自分で練習しているときには「音色が美しく変わる瞬間」というのは自覚しにくいです。代わりに「自分の中に音楽が入った」とか、「ストレスなくスムーズに時が流れている」とか、そんな感覚になったときが「弾けるようになった」瞬間なのですね。

  2. Y.M. より:

    中国の古典に「教うるは学ぶの半ば」という言葉があるそうで、
    「人にものを教えるということは、半分は自分で勉強することにもなる」という意味だそうです。
    生徒さんにとって難しい箇所は、教える八百板さんにとっても難しい箇所だと思うので、
    生徒さんが美しく演奏できるようになれるように、的確に教えるにはどうしたらいいか、
    それを探し求め、試みることは、八百板さんの演奏をより美しくするために、
    非常に有益なことだと思います。

    1. 八百板 正己 より:

      ありがとうございます。さすが中国の古典ですね。

      今、毎週バッハの解説をビデオ収録しています。そこでは一人でカメラに向かって話しているのですが、それでも自分一人で弾くのと違って、なぜ自分はそう弾くべきだと判断したのか、どう話せば伝わるか、と考えるのがとても勉強になっています。

      1. Y.M. より:

        レッスンで、1人の生徒さんに向かって話す時と
        大勢のお客さんに見てもらうことを念頭に置いてビデオを収録する時では、
        おのずと話し方が変わってくるかもしれないと思います。
        「どう話せば伝わるか」を考えることは、ビデオでは特に大切ですね。

  3. 星野裕子 より:

    八百板先生は、本当に謙虚な方だな、と思いました。
    以前、「超効率バッハ練習法」の書籍を購入させて頂いた後、コメント欄に、以前通っていた音楽教室の残念な先生の話を書かせて頂きました。(ミスを繰り返してしまう生徒さんに、寄り添った指導もせず、次第にイライラしてあたるようになっていった事)
    最近行ったある飲食店で、おそらく入って間もないと思われる店員さんに、古株の店員二人が、乱暴な言葉で指示をしていて、見ていてあんまりだと思ったので、帰り際に古株の店員二人に、かわいそうじゃないか、と言って店を出た事がありました。

    日本では昔から、「苦労や苦痛を乗り越えて一人前」「先生や先輩の言うことに従う。指導がおかしいと思っても疑問をもってはいけない」等の、根性論や間違った精神論が幅を利かせています。行きすぎた指導の弊害を見直そうという動きが、学校の部活動や、スポーツ指導の場面等で、少しずつ出て来ているようです。

    「音楽の神様」がもしいるとすれば、音楽というものを、イライラのモトにするか、ワクワクや喜びをみんなに広げるモトにするのか、どちらを喜ばれるのか、プロアマ問わず、考えてみたほうがいいかも知れません。

    1. 八百板 正己 より:

      嬉しいお言葉をありがとうございます!

      教える側の態度について、私はこう思っています。
      教える人が「自分はこんなにできて偉いんだ」と思っていればそのような態度で教えるし、
      教える人が「自分はまだこれしかできない」と思っていればそのような態度で教える、
      ということです。

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