なんと悲しい(ビデオ付き)
ああ、なんと悲しいのでしょう!
バッハのゴルトベルク変奏曲の第15変奏です。あまりに悲しいのです。練習していても胸が締め付けられるようです。
「悲しい」といっても、イタリア・オペラの主人公みたいにフォルティッシモで泣きわめいたりしません。めそめそと同情を買うように泣くのでもありません。悲しい気持ちを自分の心の中に静かにしまっているかのようです。
「こんなに悲しいのは誰かのせいだ」とか「自分ばかりこんな目に遭うのは不公平だ」というのでもありません。すべてをそのまま受け入れた境地とでも言うのでしょうか。
バッハはこの曲で、「5度の反行カノン」という、信じられないくらい難しい作曲の技法を自らに課しています。高度な作曲技法が一瞬たりとも破綻しないだけでもすごいのに、それが音楽自体の悲しみと完全に両立しているのです。まさに晩年のバッハが到達した境地と言えるでしょう。
私自身は幸いにして今そんなに悲しい人生ではありません。というか、今の人生に感謝しています。それでも、バッハの音楽の力があまりに強いので、自分が感じてもいない感情に身を委ねることだって不可能ではないのです。
それではお聴きください。収録したばかりの、ゴルトベルク変奏曲の第15変奏です。
あなたのコメントをお待ちいたします
下のほうのコメント欄で、あなたのお考えをお聞かせくださると嬉しいです。
(システムの都合により、いただいたコメントがサイトに表示されるまでに最長1日程度お時間を頂戴する場合があります。あらかじめご承知くださいませ。)
おはようございます!
ガラス戸の向こうに冬の陽ざしを見ながら、こたつに入り先生のチェンバロを聴きました。
今日は悲しくなんかなかったです。ただ美しいだけ!
悲しみも友になり、心にのこります。今日はあと何回も繰り返し聴きます。
コメントありがとうございます。
私の演奏を何回も聴いて下さるとは嬉しいです!
「悲しみも友になる」とは、いい言葉ですね。
ゴルトベルク変奏曲では数少ない、短調の変奏ですね。
悲しみというより、平均律クラヴィーア曲集第2巻のイ短調のフーガのような
思わず居住まいを正すような厳粛さを感じました。
バッハが壮年の頃に書いた、平均律第2巻のイ短調のプレリュードの
身悶えするような感情の露出と比べると、晩年に書いたゴルトベルク変奏曲には
喜びも悲しみもすべて神の御心に委ねたような、悟りの境地を感じます。
短調だから悲しい、長調だったら悲しくない、という単純な考え方はできないと思います。
ヘンデルの「メサイア」のアリア「He was despised」が変ホ長調で書かれたように。
「悟りの境地」そう、それだと思います。
決して諦めたのではなく、そのまま受け入れたという事ですよね。
最近、ブラームスの交響曲を聴く機会が多かったのです。彼も、喜怒哀楽をおおっぴらに音楽にする方ではないと思いますが (実際は、両者とも、それほどクールな人柄でもなかったのかも知れませんが)、堅牢な構成の中に、ほろ苦い感情を閉じ込めた、という点では、今回のバッハの変奏部分と共通しているのかも知れません。
今回の変奏箇所は、悲しみを心のうちに秘めつつ歩んでいく低音域と、押さえきれずに悲しみがにじみ出る高音域、という風に聴こえました。
ありがとうございます。
「悲しみを心のうちに秘めつつ歩んでいく低音域と、押さえきれずに悲しみがにじみ出る高音域」とは、素晴らしい感受性をお持ちですね。
私もブラームスを聴きたくなりました。