環境音

他の人はどうなのか分かりませんが、私はけっこう周りの音が気になるほうだと思います。

今、この文章を書きながら、家の裏を走る信越線の踏み切りの遮断機の音、鉄橋を渡る貨物列車の音が通り過ぎていきました。

さっきから気になっているのが、古くなった蛍光灯が発する「ジー」という音。頭の向きを変えると、20ワットと30ワットの2本の蛍光灯が発するそれぞれの音のバランスがいろいろに変わります。さっきから気になっているというのは、その音程が嫌なんです。減7度の不協和音程です。バロック時代だったら「苦しみ、絶望、嘆き」といった、特別な感情を強調するときにしか使われない、作曲法の規則違反です。それでも、ぴったり減7度ならまだましですが、調律が狂ったみたいな微妙な減7度崩れなので余計に気になります。

家の前の道を、こんな時間なのに、乗用車がうるさいエンジン音を立てて通り過ぎていきます。

それが過ぎると、また踏み切りの遮断機の音が鳴り始めます。この時間に通るのは貨物列車だけです。

時計のカチカチいう音が鳴り続けます。

この文章を書いているノートパソコンから「キュルキュル」というかすかな音が聞こえます。ハードディスクドライブにアクセスする音でしょう。

そして私がキーボードを打つ音。

そういういろいろな音と同時に、私の場合はバッハが頭に鳴っています。文章を書きながらだと、頭に鳴る音楽に集中しないので、気がつけば同じ数小節ばかりがエンドレスで鳴り続けています。それでも、複雑な対位法の全声部が同時に鳴るので、それに合わせてキーボードを打つ手が止まって、鍵盤上の指の動きをしそうになります。ああ危ない。これが始まるとバッハの曲が終わるまでパソコンの作業が一時停止してしまうのです。

 

私にはBGMというものはありえません。町を歩いていてジャズが鳴っていても、ポピュラー音楽が鳴っていても、つい和声進行を追ってしまって、それに合わせて即興で通奏低音を空気中で弾き始めてしまいます。図書館でモーツァルトなんか流れていた日には、絶対に本なんか読めません。第2ヴァイオリンやヴィオラの旋律までしっかり聴き取ろうとして、同時に指は即興で通奏低音を空気中で弾き始めます。

だから、「ノートパソコンをスターバックスに持ち込んでお洒落に仕事する」なんていうことは私には無理でしょう。やってみたことはありませんけれど。やるなら森の中です。あ、森の中には美しくさえずる鳥たちがいますね。夏には蝉が鳴きますね。特にミンミンゼミが鳴き出すと、一回ずつ「ミン」が増えていくのを数え始めて、今度は最長何回まで「ミン」を繰り返すのか?と聞き入ってしまうんです。

 

神秘的な音としては、寒い日に雪が降り積もる音がありますね。寒い日の雪は粒が小さく固まっているから、フワフワと舞い落ちるのでなくて、パラパラと雪の山に当たる感じで、音が聞こえるんです。

私が知っている一番神秘的な音は、澄み切った夜空から聞こえる宇宙の音です。町の夜空ではダメです。人里遠く離れた真っ暗な夜空に、輪郭をスケッチできるくらい天の川がくっきりと浮かび上がる天体観測のメッカ。学生のときに仲間と一緒に望遠鏡を担いでかよったものです。夕方現地入りして機材をセットすると、翌朝まで10時間以上も星を見るほかにする事がありません。お互いのお喋りもネタが尽きて、真夜中を過ぎてからはひたすら自分と宇宙との対話です。そんなときに聞こえてくるのです。宇宙からの音が。

 

星空を思い出して感慨に浸っていたというのに、ノートパソコンから突然「ウィーン」という音が始まりました。バックグラウンドタスクか何かでハードディスクが動き出したのでしょう。ああ邪魔が入った、と頭を掻いたら、頭を掻く音がしました。目が疲れたな、と思って目を強くつぶったら、何でしょうこれは、こめかみの血管に血が流れる音? とりとめもない文章、そろそろ終わろうと思って深呼吸したら、深呼吸の音がしました。

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環境音” に対して1件のコメントがあります。

  1. T.H より:

     おはようございます。

    先生の耳は特別音に敏感でいらっしゃるのかなあ? そうですよね。
    宇宙からの音ってどんな感じなのでしょうか?
    星空から音を聴くとは考えたことはありませんでした。

    夜空の星だけしか見えないところに行けば、少しわかるかな・・・。

    1. 八百板 正己 より:

      コメントありがとうございます。

      実際に宇宙から音が聞こえるはずはないのですが(宇宙には音を伝える媒体である空気がないので)。特別に静かなところにいると、何か「サー」とか「シー」とかいう感じの音が頭の中でかすかに鳴ります。耳の構造でそうなるのか、理屈は良く知りませんが。正体は多分そんなところだと思うのですが、飛び切り美しい夜空を見上げていると、まるで宇宙から聞こえてくるような感じがするのです。

      1. T.H より:

        先生の身のまわりはすべて音楽につながって、音楽に囲まれておられるのですね!
        「夜空を見上げても宇宙から音がきこえる」そのわけがわかりました。

        木下さんへのご返信の中にピタゴラスの名前が出ていました。何年か前スタジオAでお話を聞いたときにも確かピタゴラスの話が載っていたように思います。講座の名前が出て来ないですみません。神殿の石畳を歩いていて三平方の定理が発見されたとかはよく覚えていますが、カノンやフーガの理論にピタゴラス学派が関係していたのはあまり知りませんでした。新しい発見になりました。

  2. 木下美代子 より:

    先生の耳は多感、鋭いですね。
    私は、電車の線路の切れ目を通る時の音、停車したりする時のお喋りのような音…こうした音は好きです。
    機械に人を感じるとでも言えばいいのでしょうか。

    夜1人になってピアノと向かっている時は時計の音が気になったり、本を読んでいる時、いくつかの時計のコチコチがハモっているかどうか気になります。

    以前大学の和声の先生が自然界のおとはハモっていると…
    何匹かのコオロギが鳴いている時、確かにハーモニーになっていたりします。
    でも私はフーガやカノンになっている時の方が好きかな?

    もしかしてカノンやフーガはここから生まれたかもって思ったものです。

    1. 八百板 正己 より:

      木下さん、コメントありがとうございます。

      私も練習中に時計の音が気になるので、チェンバロスタジオの時計は針が連続して動くものを選びました。いつもいつも四分音符=60で刻まれてはたまりませんから。

      カノンやフーガの思想的な出所は天体の運行です。古代ギリシャのピタゴラス学派による「宇宙の構成原理は数比例の美だ」との考え方がキリスト教にも持ち込まれ、中世末期の多声音楽の発展とともに作曲の原理として確立しました。これを話し始めると一つの講座になってしまうので、今日はこの辺で。

  3. 家合映子 より:

    先生、メルマガでのお話を今回もありがとうございました。とても興味深いです。まだ先生の書かれた文章を丁寧に読んでいるとはいえない今の私です。環境の音は時に応じて気になったり、ならなかったり…。確かにオルガンの演奏会などに行くと、曲の途中で(聴きながら)和声分析をしたりしていることもあります。また何かの音をドレミで聴いたり・・。色々です。またあまり嬉しいことではありませんが、最近は頭の中で蝉の鳴くような、じーっという音が聴こえる様になりました・・。ある日曜の午後、”疲れたなあ”と思ってへとーっとしていると聴こえる様になりました。年齢でこういうことがあるようですね・・。本当は前回のメルマガの件でも、心に色々思い浮かぶことがあって、コメントをお送りしたいのですが、今は通奏低音の、次のバッハの演奏会の練習に時間をとりたいと思います。
    前回のメルマガも本当に良かったです。お父さんのまなざし、というか、そういうものが伝わってきました。ありがとうございました。それからもう一つ⋯、私が本当に自分の時間を過ごしたい時は、美術館がいいです。あのしーんとした空間、癒しになります。🐟。

    1. 八百板 正己 より:

      家合さん、コメントありがとうございます。

      美術館、いいですね。特にすいているときの美術館は静寂そのものでいいですね。家合さんのお気に入りの美術館はどこですか?

      ブログへのコメントは後からいつでもできますので、お時間のあるときにゆっくりお願いします。

      1. 家合映子 より:

        美術館ならどこでも‥。ただ、どぎつい絵とか雰囲気は、あまり好きではありません。新潟だと、一般的ですが、長岡の県立近代美術館、新潟市美術館、東京だと、上野にある国立の美術館(これも一般的)・・など、機会があればー機会をつくってーまた行きたいです。

        1. 八百板 正己 より:

          よかった。私もそこなら一通り行きました。

  4. 塚田泰司 より:

    私は音楽が好きですが、私とは別世界のお話です。羨ましいですが、疲れるのではないかという心配もあります。ルターは音楽を数学のジャンルに入れたということと共通しているのでしょうか。

    1. 八百板 正己 より:

      塚田さん、コメントありがとうございます。

      音楽を理系科目として扱う伝統はルターよりずっと古く、中世に教養科目としての「自由七科」が定められて以来です。自由七科は言語に関わる3科(「文法」「修辞学」「論理学」)と、数字に関わる4科(「代数」「幾何」「天文」「音楽」)から成ります。起源をさかのぼると古代ギリシャにまで行き着きます。

  5. 長谷部和子 より:

    環境音、とても興味深く読ませていただきました。普段私が全く気にならない事が、先生にとってはこんなにも耳に入って来る事に、驚きます。聞こえてくる音楽に通奏低音を頭の中で奏でるなんて! 私は鈍感なのだろうか…と考えました。が、私にとって気になる音は、声です。昔からの癖なので当たり前に感じていましたが、人の声、
    特に歌声が気になります。外出先や、テレビから流れてくる歌声に耳が反応します。顎に力を入れ過ぎてるな、喉から出してるな、もっと下の支えがあればいいかなー、などなど。今はカフェに居ますが、隣の方の話し声が特徴的で、どこからどの辺りに共鳴しているのか、じっと聞いてしまいます…(^^;;

    1. 八百板 正己 より:

      長谷部さん、コメントありがとうございます。

      聞こえてくる歌声を全部指導したくなるなんて、職業病ですね! そういう職業病は(私の通奏低音もそうですが)プロの証です。誇りに思ってもいいですよね。

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