オンライン・ビデオ教材「バッハ最愛の鍵盤楽器クラヴィコード」(新版)
~ バッハの教育用諸作品の本当の美しさを再発見 ~
1.クラヴィコードとは何なのか? その魔力の秘密と歴史的意義
1.1 はじめに
「バロック時代の代表的な鍵盤楽器はチェンバロ」と多くの方が思って下さっているのは、チェンバロ演奏家の私としてはとても嬉しいことです。けれど、実は当時チェンバロよりもずっとずっとたくさん作られ、いつでもどこでも気軽に使われた「クラヴィコード」という楽器があったのです。しかし現代ではその名前もほとんど知られていないこの楽器を目にする機会は少なく、さながら「幻の鍵盤楽器」となっています。
1.2 外観
横長の長方形をしています。脚の付いているものもありますが、携帯用にも重宝した楽器なので机の上に置いて弾くものもありました。


1.3 同時代の鍵盤楽器との使われ方の違い
- クラヴィコード・・・音が非常に小さいので個人的(練習や作曲)に弾かれた楽器
- チェンバロ・・・華やかな音色を生かして社交の場(サロン)で弾かれた楽器
- オルガン・・・荘厳な音色と大きな音量を生かして教会で弾かれた楽器
※ ちなみに当時は「演奏会場」という場はありませんでした。
1.4 クラヴィコードの発音原理
ギターなどの指板をたたくと微かに音程が聞き取れるのと同じ原理です。

キーの先に埋め込まれた縦長の金属片(タンジェントという)が弦に当たると、そこから右側の部分の弦がわずかに振動して音が出ます。キー以外には動く部品はありません。
1.5 クラヴィコード誕生までの歴史
古代ギリシャに「モノコード」(日本語で「一弦琴」)と呼ばれる教育機器がありました。一本から数本の弦を張り、押さえる場所をいろいろ変えて弾くことで音程理論の教育に使われました。(写真は現代日本の教育機器メーカーの商品です)

中世にはこれに鍵盤を付けたものが現れ、それが発展して弦も増え、14世紀にクラヴィコードが誕生しました。
1.6 教育用楽器としてヨーロッパ各国で普及したクラヴィコード
- 安価・・・チェンバロなどに比べて部品がとても少ないので
- 保守が容易・・・調律が長持ちしやすいし、チェンバロと違って爪が折れる心配もないので
- 音が小さい・・・初級者が真夜中に練習しても全く迷惑にならないので
- 繊細なタッチが必要・・・他のどの鍵盤楽器よりも演奏が難しく、これが弾ければ他は楽なので
クラヴィコードから学んだものによって、オルガンやチェンバロ、ヴァージナルその他の鍵盤楽器を、たやすく、しかも上手に弾きこなすことができる
ゼバスティアン・ヴィルドゥング著『ドイツ語による音楽論』1511年
クラヴィコードは、オルガン、チェンバロ、スピネット、ヴァージナル等々を含むあらゆる鍵盤楽器の中で、最も基本的なものである。オルガンを始めようとする学生は、最初にクラヴィコードを学ぶのがよい。(中略)なぜなら、彼らは調律をしたり、折れたクイルを取り替えたりすることは、きわめて不得手であるに違いないからである。
ミヒャエル・プレトリウス著『音楽大全』1618年
1.7 あらゆる鍵盤楽器演奏の基礎とされたクラヴィコードの演奏技術
- 雑なタッチではキーが弦に跳ね返されて音が鳴らない → チェンバロの良い発音に
- 音を出した後も同じ強さで保持し続けないと音程が変わる → オルガンの指の保持に
- タッチの速度で音量がかなり変えられる → チェンバロ、オルガンの表現力向上に
- ヴィブラートをかけられる → 鍵盤曲に託された歌唱性の発見に
1.8 ドイツで特に愛用されたクラヴィコード
バロックから古典派にかけてのドイツの鍵盤独奏曲には、じつはクラヴィコードを第一に念頭に作曲されたものが多いのです。
バッハが最も愛用したのはクラヴィコードである。(中略)彼は勉強のためにも、また個人的に音楽を楽しむためにも、クラヴィコードこそ最良の楽器だと考えていた。彼はこの楽器が自分の最も細やかな楽想を表現するのにいちばん適切だと思ったし、フリューゲル(=チェンバロ)やピアノフォルテでは、音量は乏しくとも細かい点で著しく柔軟なこの楽器の場合ほど、多様な音の陰影が出せるとは考えなかった。
ヨハン・ニコラウス・フォルケル著『バッハの生涯および芸術作品について』1802年
よいクラヴィコードは、音が弱いということを除いては、音の美しさではフォルテピアノには劣らないし、ベーブング(ヴィブラート)やポルタートを付けることができる点でフォルテピアノよりも優れている。したがって鍵盤楽器奏者の能力を最も正確に判断できるのは、このクラヴィコードである。
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ著『正しいクラヴィーア奏法第1巻』1753年
本物のクラヴィーア(鍵盤楽器)とは、クラヴィコードのことである。
ダニエル・ゴットロープ・テュルク著『クラヴィーア教本』1789年
私の亡き夫モーツァルトは、魔笛、皇帝ティトゥスの慈悲、およびレクイエムをこのクラヴィーアで作曲した。
ザルツブルク・モーツァルト博物館所蔵のクラヴィコードに書き込まれた、妻コンスタンツェの筆跡
1.9 クラヴィコードの復活
チェンバロやフォルテピアノ(18世紀や19世紀の軽い構造のピアノ)よりもずっと遅れて、クラヴィコードは最近やっと聴かれるようになってきました。
復活が遅れた理由:
- 「バッハの時代にはピアノではなく、本当はチェンバロで弾かれていた」「モーツァルトは現代のピアノではなく、本当はフォルテピアノで弾かれていた」ということすら知られていない時に「バッハはチェンバロではなく、本当はクラヴィコード」「モーツァルトはフォルテピアノではなく、本当はクラヴィコード」と言っても意味がありませんでした。
- せっかく昔の楽器を甦らせようとしているのに、「現代のピアノもクラヴィコードもタッチで音量を変えられる。バッハはクラヴィコードを最も愛した。よってバッハはチェンバロよりも現代のピアノで弾くべき。」という理屈で昔の楽器が無視されるのを嫌いました。
- チェンバロやフォルテピアノでさえ大ホールでの演奏会が成り立たないので、演奏者と聴衆がはっきり二分された現代ではクラヴィコードを生で聴ける機会はほとんどありません。かといって録音では最弱音の魔力を伝えるのは無理で、録音されたクラヴィコードの音は「何だか安っぽいおもちゃのようだ」と誤解されがちです。
現在、小さい空間での演奏会や、音楽を自分で弾いて楽しむことの広まりによってクラヴィコードも復活しつつあります。「何でも大きいほど素晴らしい」という時代はもう終わりました。ほとんど聞こえないほど音が小さくても、そのことでしか感じられない感動もあるのです。音楽にはさまざまな価値があるのだということに思いを馳せていただければ幸いです。