バッハからもらうエネルギー
監督者、指揮者、演奏者、と何役もこなすそのエネルギーは、どこから湧き出てくるのでしょうか。
新潟バッハ管弦楽団&合唱団長岡公演にご来場のK様より
先日おこなわれました新潟バッハ管弦楽団&合唱団の公演後に、お客様から頂いたメールの中にあった一節です。
私は4年半前にこの団体を立ち上げたときから、練習でも本番でもいつもチェンバロをオーケストラの真ん中に置いて、通奏低音と呼ばれる即興的な伴奏を弾きながら指揮をしてきました。バッハの時代には当たり前だったこんな指揮のスタイルをご覧になってのご感想です。
たしかに、棒を振るだけの指揮と違って自分の楽器の練習を必要とします。それに、通奏低音では弾くべき音を作曲家がほとんど書いてくれていないので、なかば編曲のような作曲のような作業も必要になります。
でも、「エネルギーを要した」という感じ、言い換えれば「ああ大変だった、ああ疲れた」という感じがあまりしないのです。夢中で取り組むうちに本番が終わってしまったという感じなのです。
そう言われて思いだしました。バッハと同じ時代でも、どうしようもない駄作を粗製乱造する作曲家もたくさんいました。そんな曲の通奏低音を練習するときは、音符自体はずっと簡単なのに大変な苦痛だったっけ。最近はそういう駄作の演奏に付き合う機会がほとんどなくなっていたので忘れていたのです。
いただいたメールの返信には「私はバッハからエネルギーを頂いております。そして演奏をお聴き下さる方々もバッハからエネルギーをもらえるようにと、仲立ちをするのが私の使命だと心得ております」と書きました。
どんなに大変でも、どうしても夢中にさせられてしまう。それがバッハの音楽のすごさだということに、改めて気付かされました。このように演奏者を夢中にさせる音楽ですから、演奏をお聴き下さる方々もきっとバッハからエネルギーをもらえることでしょう。エネルギーという言い方が最適なのかどうか分かりません。生きる勇気とか、真実の強さとか、もっと高い次元のことのように感じます。よい言葉が思い付きませんけれど。
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私は全く立場が違いますが、わかるような気がします。
コメントありがとうございます。
いつも歌ってくださっているバッハの合唱のテノールも同じですね。難しくて練習が大変ですけれど、それを忘れさせてくれる力がありますね。
本当の天才が産み出した芸術作品は、音楽に限らず、演劇や舞踊の練習、
あるいは絵画を模写したり文芸作品を書写したりする場合でも、する人に
「苦痛だ」などと感じさせない、する人が受け取って心が充実するようなエネルギー
(という言い方が最適なのかどうか分かりませんが)を持っているのでしょう。
そうですね。芸術の分野を問わず同じことが言えますね。
ただし、それには受け取る側の感受性が育っていることが必要です。
それがすばらしい芸術だという事を感じられないと、やっぱり苦痛にしかならないようです。私も子供のときに一度はバッハが嫌いになりましたし。
私は八百板先生からも、たくさんエネルギーをいただいています。
ふと疑問に思ったことに対して、先生がメルマガの中で答えて下さって、あっと驚くこともしばしばです。今回もです。
先日、同僚に「世の中には名演奏CDがたくさんあるんだから、あなたが演奏する意味なんてないでしょ!」と言われまして、考え込んでしまいました。その答えは、今回のメルマガにありました!演奏する私がエネルギーを、生きる喜びを、もらっているんですね。
いつもありがとうございます。
嬉しいコメントをありがとうございます。
演奏する山川さんがバッハからエネルギーをもらうのはもちろんです。
もっと意義があると思うのは、「私の友達である山川さんがこんなに頑張ってこの曲を弾くなんてステキ!私も明日から頑張ろう!」と、聴いてくれる人たちにもエネルギーを与えられることです。
世界的演奏家のCDは素晴らしくて当たり前です。世界的ではない人が頑張って演奏することは、演奏自体の出来が良いか悪いかとは別の次元でまた素晴らしいのです。これが文化です。
八百板先生、ありがとうございます。
私はバッハから・・、というよりもバッハが見ていたもの・・、バッハもまた一人の人間であって、でも、私たちはきっと、共有するものを与えられているのではないかと思うのです。バッハが見ていたものを私も見ていたい、そう思ってきました。私たちが歌い、演奏し、生きていくこと、そのことが大事なことだと思います。私もゆるされる限りですが、自分に与えられた分を果たしていきたいと思います。皆様と一緒に賛美歌を歌い、美しいバッハのハーモニーとともに、演奏を共にさせて頂き、歩みたいと思います。皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
(゜))<<。
素晴らしいコメントをありがとうございます。
「バッハが見ていたものを共有したい」とは素晴らしい洞察ですね。
バッハの素晴らしいところは、あれほどの音楽を作りながらも「私が作った」とか「私の才能は素晴らしい」といった自慢が感じられないことです。亡くなる直前まで自作の推敲を続けた謙虚な彼には、何が見えていたのでしょうね?
横槍で何ですが。
バッハは音楽を作ることによって、自分の才能をひけらかすのではなく
「神の栄光を讃える」ことを、何よりも願っていたのではないでしょうか。
自筆譜の最後に「Soli Deo Gloria(ただ神にのみ栄光あれ)と記していたことも。
私たちが今、バッハの音楽を演奏したり聴いたりする時にも、
バッハの才能を讃えるよりも、バッハをしてそのような音楽を作曲せしめた
神の栄光を讃えることを、念頭に置くべきではないでしょうか。
バッハは、宗教曲を作るときの情熱と全く同じように、世俗曲を作るときにも情熱と才能を最大限注ぎ込んでいます。全く驚くばかりです。神の栄光を讃えるためでなくても、バッハにとっては音楽であるからには全身全霊を傾ける対象だったのでしょう。