春の音、春の匂い
先日の夜、帰宅途中に車を止めて外に出てみると、ああ、今年も出会えました、蛙の合唱! いつのまに、こんな季節になっていたんだなあ。
私の自宅もスタジオも市街地の中にあるので、蛙の鳴き声がこんなに盛んになっていることに気が付かなかったのです。あたり一面の田んぼには水が張られて、早いところでは田植えも始まっています。いつまでもボーッとしている場合ではないけれど、1分くらい蛙の合唱に聞きほれました。
夜空にはあと二日くらいで満月になる殆ど丸い月、そして木星が、うっすらと広がる淡い春霞を照らしています。そして、ああ、今年も出会えました、春の夜の匂い! いつまでもボーッとしている場合ではないけれど、もう少しだけ深呼吸して春の夜の匂いに浸っていました。
春の夜特有のこの匂いは何なんでしょうね。水が張られた田んぼの匂い? でも昼間はこの匂いはしません。よく分からないけれど、とにかく一年ぶりの懐かしい匂いです。
雪国の春は劇的だと思います。次から次へと美しいことが続きます。あの花が咲いたかと思えば次はこの花。あの鳥が南の国からやってきたかと思えば次はこの鳥。あの山の新緑が淡い薄緑色になったと思えば次は黄緑色。そして田植えと蛙の合唱と、春の夜の匂いです。そういえば、結婚前に住んでいた旧栃尾市の山奥では、雪解けの雑木林の匂いというのもあったのを思い出しました。
匂いというのは、理屈で考える大脳を飛び越えて、人の感情的な記憶を一瞬で呼び覚ます力があるそうです。例えば保育園や、小さいお子さんのいる家にお邪魔すると、小さい子供特有の匂いがします。すると、私の娘がまだ小さくて子育てが大変だったころの喜怒哀楽の感情が全部いっぺんに蘇ってくるのです。
音にも同じような力があると思いませんか? あなたも私と同じように音楽に夢中でしょうから、きっと世間一般の人よりも音への感受性が豊かだと思うので。
「雅楽」という文字を読むなら、「平安文化」とか「お正月」といった言葉が連想されるでしょうか。では、雅楽の演奏を録音でもいいから聴くとどうでしょう? 寒いお正月に着飾って初詣に行くときの、あの何とも晴れ晴れとした気分そのものが蘇ってきませんか?
何百枚あるか数えたこともないスタジオのCD棚には、もう何十年も聴いていない物もたくさんあります。稀に取り出して聴いてみると、私がまだ会社勤めをしていた頃、週末は風呂も暖房も止まるというとんでもないオンボロ独身寮の寒い部屋で、バロック音楽の全貌が全く見えないまま手当たり次第にCDを買い集めていた頃の気分が蘇ってきます。そんなとき、自分でも気が付かない間にずいぶん遠いところまで来たんだなと思います。
あなたにとっての懐かしい匂い、懐かしい音は何ですか?
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桜を見れば「さくら、さくら」。菜の花を見れば高野辰之、岡野貞一の「朧月夜」。ちまきを見れば海野厚、中山晋平の「背くらべ」・・・という具合に日本の歌しか出てこない私です。これらはすぐに口ずさんでいますが、1曲くらい洋風のメロデーが出てくるようにならないかなあと思っています。
コメントありがとうございます。季節それぞれにちなんだ日本の歌が口ずさめるのは素晴らしいことですね。四季を愛でる感性をそれこそ奈良平安の昔から育んできた日本文化の上に作られたそれらの歌は、やっぱり日本人の宝だと思います。
日本の歌・・いいですね~。私はー出来ればオルガンを弾かせて頂いて(希望)ー多くの方々と一緒に歌いたいです。
もう遥かなる記憶ですが、多分私の幼稚園時代はピアノはなかったのではないかと思います。いろんな歌をオルガン伴奏で歌っていたのではないでしょうか。終戦は1945年、小学校で校歌を何の伴奏で歌っていたのか全く記憶にありません。音楽の先生はおられました。お名前は苗字だけ覚えているのですが。
中学校ではピアノがありました!昼休みは大勢でピアノの周りに集まって先生や誰かが弾くのを聴いていました。その光景はしっかり残っています。 もし家合様の夢が実現されたら嬉しいですね!!!
ありがとうございます。
心があったまりました。蛙・・の合唱・・私がまだ幼かったころ、母の(田舎の)実家で夜聞いた、それは、強烈でした。蛙の大合唱を、布団の中で眠れず、ずーっと聴いていた記憶があります。それも一度や二度ではなかったように思います。私の理解の限りですが、マタイ受難曲でもまたバッハ以前のシュッツも、交互に演奏(合唱)することをしていますよね。蛙もまさにそうでした。すごいっ!グループがあるのでしょうか。こっちで騒いで収まるとまた別のところから鳴き始めます。かなり大きな、うるさいと思うくらい大きな大合唱でした。今でも私の住んでいる分水の自宅の、小さな庭から蛙の鳴き声を聞きますが・・ほっとして嬉しくなります。前に主人と礼拝中に賛美歌を歌っていた時、蛙も鳴き始めて(蛙に茶化されているようにも思え)笑ってしまいました。話は少しそれますが、家の小さな庭には、色んな小さな生物がいます。蛙もそうです。トカゲも・・。あまり大きな声では言えませんが、私はそれらの小さな生物が可愛く思います。動き方とか‥。
それから昨日、教会の夕礼拝に出席するため新潟に向かう途中、農道を車で走りながら見たのですが、左の向こう側に朱い夕陽、右の向こう側には白い月、どちらもまるまるとしてシーソーのように(自分の居場所を中心にしてですね)感じました。お話を読ませて頂き、色んなことを思いました。まだ他にもありますが、今日はこれくらいで終わります。
家合さん、コメントありがとうございます。
私も子供の頃に親戚の家に泊まりに行って、周りが全部田んぼという環境でしたから、それはそれはものすごい蛙の合唱だったのを思い出しました。
先日の夕日と満月、私も見ました。菜の花の季節でもありますから、与謝蕪村の俳句の世界そのものですね。
春の音、春の匂い。深く共感しました。空気の匂いは季節や時間によって様々で、子どもの頃から不思議だな、と感じていました。今は早朝、まだ町が静かな時間に深呼吸をするのが楽しみです。夕方は自宅レッスンの1番忙しい時間で全く外に出られないので、先生が羨ましいです。
音、に関して言えば、不安や悲しみの感情に密着しています、私の場合。嬉しい時に聴いた曲は全く思い出せませんが、学生の頃悩みがある時に聴き弾いたショパンのノクターンや、子育てにつかれていた頃に行ったコンサートで聴いたシューベルトの即興曲など、弱っていた心に寄り添ってくれた曲は、大切ですね。
長谷部さん、コメントありがとうございます。
早朝の空気感はどの季節でも特別ですね。私も一時、頑張って早朝ランニングに挑戦していたときに、いつもすがすがしい気持にさせてくれました(今は夜の帰宅途中に体育館に寄って走っています)。
私のチェンバロの蓋に「音楽は喜びの友、悲しみの薬」というラテン語(昔のチェンバロによく書かれた格言の一つ)が書いてあります。喜びと悲しみが両方書いてありますが、生きるのが今よりもずっと難しい時代でしたから、悲しみを治してほしいという願いのほうが圧倒的に切実だったのでしょうね。