こんなに易しい曲をこんなに心を込めて(ビデオ付き)
自分の演奏を「心を込めている」と自慢するのではありません。その逆なのです。
このところ私は「オランダバッハ協会」のYouTubeチャンネルを毎日のように見ています。そこで見つけた一つの演奏が、私の心をとらえて離さないのです。
ごく易しい宗教歌曲で、子供でも簡単に歌えてしまうほどです。伴奏(通奏低音)はバッハが作ったとされていて音符が多いですが、歌のパートは至ってシンプルです。
そんな易しい曲なのに、一度聴くとずっと頭の中でリピート再生されつづけるのです。
曲がいい、というだけの理由ではなさそうです。演奏者が、特に歌手が、その易しい曲を完全に自分の中で消化して、自分の心そのままの表現がされているからだと思います。
ああ、音楽はこうでなくてはいけないんだな、と反省しています。鍵盤音楽は、特にバッハの複雑な鍵盤音楽は、ともすると楽譜にかじりついて、どうにかその場をうまく収拾させて、なんていう演奏になりがちです。
これからは「バッハの鍵盤音楽は複雑だ」なんて言い訳しないで、自分の中で音楽を完全に消化して表現できるように最善を尽くします。
では、私の心をとらえて離さないその演奏をご覧ください。曲は「シェメッリ歌曲集」から「私はあなたの飼い葉桶のもとに立っています」BWV469です。
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演奏に、では無くアーカイブ音源としての録音作法について。
女性歌唱が非常に大きく、リュートとチェロ(ヴィオラ・ダ・ガンバ?)が引っ込んだバランスです。
全ての声部を対等に扱うことに生涯、執心していたバッハが、本当に望んでいたのでしょうか?
せっかく古楽のスタイルを踏襲しているのに、これではフロント奏(歌唱)者だけをクローズアップさせる昨今の演奏スタイルであり、最もバッハ及びバロックの対位法から遠ざかっているのではないか?
ハイドンはいつもハンディタイプのクラヴィコードで作曲し、時には其れを用いて歌曲の伴奏もしたそうですね。
あの音量のクラヴィコードが、と現代からしたら到底信じられません。
が、彼の時代には相応しかったのでしょう。
拙は日本古楽協会の実演を何度も聴いていますが、例えばリコーダー協奏曲とかでも、ここまでソロが強調されていません。
バロックも古典派期も、もっと協調性に満ちたバランスだったのは間違いないと想うのです。
この不自然なバランスのせいで、拙は八百板先生の様には、演奏に没頭出来ませんでした。
丁寧なコメントありがとうございます。
私も配信チェック用に自分のスマホに届いたものを聞いてみました。
たしかに歌しか聞こえませんね!!
私はYouTubeで音楽を聴くときはいつもパソコンに外付けのスピーカーで聴いているのと、低音を大きく補正して聴く習慣(職業病)があるのとで、気が付きませんでした。
楽器のバランスという事でひとつ。
カンタータなどの通奏低音で、普通はちっちゃなポジティフオルガンを使いますよね?
でもバッハの時代には、天井にそびえる大オルガンで通奏低音を弾いていました。
バッハ・コレギウム・ジャパンのバッハ教会カンタータ全集のCDに数枚だけ、大オルガンで通奏低音を弾いているものがあります。
素晴らしいですよ。
今の普通の演奏だとポジティフオルガンはチェロの付属物みたいでほとんど聞こえません。
でも大オルガンで通奏低音を弾くと、完全に立場が逆転します。
大オルガンが弾く和声が主役とも言えるほどで、オーケストラや合唱のパートはオルガンの和声から音を拾って旋律を作っているというふうに聞こえます。
朝食後にメールを一通りチェックしているので、時間が許す時はそのまま添付のビデオを拝見させてもらっています。
聴く姿勢、嗜好、許容は人それぞれですので一概に演奏の良し悪しは決められないと思いますが、いろんなジャンルを聴く私などにとっては今後の参考になります。
前にコメント入れたことありますが、昨今の演奏は楽譜に忠実に弾くことがよしとされるキライがありますが、私自身はどうも好きになれません。
それならAI技術が進んだ今はそちらを選んでもいいかも?
もちろんいろんな意見があると思います。
これも私一個人の感想です。
AIが「ありがちな演奏」を演算するようになる日も近いでしょうね。
「57歳の日本人男性チェンバロ奏者がバッハを弾くときに一般的にやりそうなルバート」とか。
だからなおさら、生身の音楽家は他人の演奏のコピーをしていては命取りになります。