久しぶりのチェンバロ運搬(写真付き)

10ヶ月ぶりにチェンバロを運びました。

この写真は新潟大学教育学部の音楽棟の前で、これからチェンバロを車から降ろすところです。この日は教育学部の学生さん向けに、通奏低音の入門の講義を仰せつかったのです。

2020年の春に新型コロナの流行が始まると同時に、私はすべての演奏活動をやめざるを得ませんでした。毎年秋か冬に依頼されていた新潟大学での通奏低音の授業も、コロナのために2回中止になりました。それが、コロナがだいぶ落ち着いてきたからという事で今年の1月に再開し、今年度分として今回また新潟大学に行ってきたというわけです。

コロナが始まるまでは毎週のように車にチェンバロを積んでどこかに出かけていました。それで積むときも降ろすときも体が完全に覚えていて、お喋りをしながらでもテキパキと作業できたものです。

それが、ここ3年半の間にたった2回しかしていないのですから、いちいち頭で考えないと作業が進みません。それどころか、手順を間違えて始めからやり直したりもする始末です。チェンバロスタジオで車に積むのには、かつての2倍くらい時間がかかってしまいましたよ。

授業のほうは、学生さんたちが真剣に耳を傾けてくださって、とても気持ちよく話せました。これから小中学校の音楽の先生になる学生さんたちは、仕事で通奏低音に直接携わるわけではありません。それでも、担当の教授の考えで、将来子供たちに音楽の本質を伝える立場の学生さんたちが音楽というものへの視野を広げるきっかけにしたいとのことです。

私はいつものようにアドリブ満載の通奏低音を披露して、それがどうやってあの無味乾燥に見える通奏低音の楽譜から生まれるのかを細かく解説しました。学生さんたちはきっと初めての事だらけで面食らったことでしょう。

 

今の音楽教育の現場では、始めにまず楽譜があって、それをどれだけ正しく演奏できるかからすべてが始まります。でも通奏低音の時代は違いました。まず演奏があり、それを何とかして記録に残そうとして生まれたのが通奏低音の記譜法なんです。

ジャズやポピュラー音楽の世界ではこの「まず演奏が先」という考え方が生きています。クラシック音楽だって本当はそうなんだ、ということに学生さんたちが気が付くきっかけになれば、頑張ってチェンバロを運んだ甲斐があるというものです。私のほうも若い学生さんたちから元気をいっぱいもらって帰ってきました。

 

収録したばかりのビデオをご覧下さい。元気いっぱいの曲ですよ。

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久しぶりのチェンバロ運搬(写真付き)” に対して6件のコメントがあります。

  1. Y.M. より:

    コロナ禍が落ち着いてきて、楽器を運んで公開の音楽活動ができるようになったのは、本当にありがたいことです。
    ビデオの録画・録音技術がどれだけ進歩しても、やはり音楽は生演奏にかないませんね。
    いつかまた、八百板さんのコンサート活動が再開されることを祈っています。

    1. 八百板 正己 より:

      ありがとうございます。
      コンサート活動ですね。いつ再開、とはお約束できませんが、ビデオ収録にしわ寄せが行かないような企画のあり方を考え始めます。

  2. K552 より:

    初めてコメント入れます。
    八百板さんと新潟バッハ管弦楽団・合唱団のことは随分前から知ってたのですが、改めて新潟にこのような存在があることをとてもうれしく思っています。
    私はりゅーとぴあ会員でもあるので、公演や会場にはよく足を運びます。
    今度は絶対に貴方の演奏会に伺いたいと思います。
    どうぞよろしくお願いします。

    1. 八百板 正己 より:

      嬉しいコメントをありがとうございます。
      りゅーとぴあは良いホールですよね。新潟の宝だと思います。

      今私はスタジオにこもってバッハのチェンバロ曲をビデオ収録することに集中していて、このプロジェクトはあと10年近くかかる計画です。生のコンサート活動を再開しても少しずつということになりますが、その時はどうぞよろしくお願いいたします。

  3. K552 より:

    チェンバロ1台を軽ワゴンでも運べるのですね!
    しかし大事な楽器を傷つけないよう細心の注意も必要なことと察します。
    そうですね、確かに今の演奏は楽譜に忠実に弾けることが第一のように指導されてるようですが、
    私自身大して楽器が弾けず、耳ばかりが先行した者からすれば演奏が味気なくなるような気もします。
    例えばBWV988(ゴールドべルク)などもCD10枚ほど持っていますが、どれも演奏ありきに聞こえます。グールドの新旧ばかりでなく、リヒターの全盛期、晩年も曲の解釈が全然違いますし、曽根麻弥子さんの1枚目、2枚目も明らかに違う演奏です。
    聴く側からすればその方が音楽として楽しめるように感じるのですが、、、、

    1. 八百板 正己 より:

      おっしゃるとおりですね。演奏を聴いて「楽譜が目に浮かぶ」ような演奏は、掘り下げ方が足りませんよね。作曲家が伝えたかったのは楽譜の奥にあるいろいろな想いなのですから。

      私は一人でチェンバロを軽ワゴン車に積みます。その作業を19枚の写真で説明したページをご用意していますので、よろしければご覧下さい。↓
      https://cembaloyaoita.com/%e8%87%aa%e5%b7%b1%e7%b4%b9%e4%bb%8b/%e5%85%ab%e7%99%be%e6%9d%bf%e6%ad%a3%e5%b7%b1%e3%82%92%e3%82%82%e3%81%a3%e3%81%a8%e8%a9%b3%e3%81%97%e3%81%8f/%e3%83%81%e3%82%a7%e3%83%b3%e3%83%90%e3%83%ad%e3%82%92%e4%b8%80%e4%ba%ba%e3%81%a7%e8%bb%8a%e3%81%ab%e7%a9%8d%e3%82%80/

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