同じ旋律を同じように弾かない(ビデオ付き)
いきなり何を言い出すのか、って思いましたか?
普通は、同じ旋律が出てきたら同じように弾けばいいと思いますよね。でも違うんです。逆なんです。
見かけがそっくりな旋律が2回3回と出てきたら、そこには実は全く違う意味が込められているんです。優れた音楽とはそのように作られているものなのです。
もし、曲の始めから終わりまで、次から次へと新しい旋律が脈絡も無く現れ続けたらどうでしょう? 何の一貫性もない、バラバラの音楽になってしまいますね。
逆に、同じような感じの旋律が何の変化も無くずーっと続いたらどうでしょう? 退屈ですよね。
芸術としての音楽の目指す所はこうです。「一貫していながら、かつ多彩であること」
そのために作曲家は、見かけはそっくりな旋律に少しだけ違いを与えて、そこに全く違う意味を込めるのです。
ですから、私は自分が弾こうとする楽譜を分析するとき、いつもこう自問します。「同じように見えるこれらの旋律は、なぜ少しだけ違うのだろう?」「このわずかな違いが暗示している正反対の事柄とはなんだろう?」「その正反対の事柄を表現するために、どんな演奏の工夫を凝らせば正反対のものとして伝わるだろう?」
そんな例をひとつご用意しました。ビデオをご覧下さい。
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おひさしぶりです。この旋律繰り返しは困っていて、特に長い曲でDCとか指定されると(ハープシコードでいま思い当たらないのですが、たとえばマタイのGerne will ich mich bequemen は3分くらいのを本当に繰り返し、やる)「これはいったいどうしたいんだ、まったく同じで2回ひくことに結局はなってしまうのでは」とおもいます(合唱とか、どうしているんだろう?)。演奏CDとかを聞いても後のほうが音が大きいかなあ?くらいしかわからない。そもそもなんで他の曲は1回なのに、これが2回なのかというところがわからないのが、どうしていいかの根源にあるような気もします。
一般化はむずかしいかとおもいますが、なにか方針のようなものがあればと思っています。
コメントありがとうございます。
長い曲のダ・カーポは、実際のコンサートの現場では短めに編曲されることが結構あります。チェンバロ曲でもテンポの遅い舞曲(アルマンドなど)の後半の繰り返しを必ず省略する演奏家もいるほどです。古典派のソナタ形式の楽章の後半の繰り返しもそうですね。聴き手に退屈させたくないからなのでしょう。私はそういう事はしない主義ですけれど。
同じ旋律が繰り返される曲で、聴き手にとってほとんどあるいは全く同じに聞こえて退屈に感じてしまうことは少なくありません。その場合、2つの状況が考えられます。
1.
演奏家は変化をつけているつもりなのに、それが聴き手に分からないほど微妙な場合。
2.
演奏家自身が開き直って、全く機械的に同じ演奏を繰り返している場合。
結局は聴き手がそれぞれ退屈しない演奏を探すことになります。これはお好みの演奏家を探す際の基準にしてもいいと思いますよ。
下のYMさんのツリーとあわせとても勉強になりました。ありがとうございます。
aoki様がコメントを下さったおかげです。
コメントをご覧になる他の方々のお役にも立っていることでしょう。
これからもコメントをよろしくお願いします。
「一貫していながら、かつ多彩であること」
これを突き詰めたのが、まさに変奏曲ですね。
それも変奏を、思いついたままに羅列するのではなく、明確な意図・秩序を持って配列する
その究極の例が「変奏3つごとに、音程が1つずつ広がるカノンを配置する」
ゴルトベルク変奏曲だと思います。
バロック時代の組曲の舞曲は、たいてい
{A(ソで終わる)}(繰り返し){B – A’(ドで終わる)}(繰り返し)
(トリオを持つ舞曲だと {A}-{B-A’}-{C}-{D-C’}-{A}-{B-A’})
こうなっているような気がしますが、A’,C’が「ドで終わる」だけでなく、
どこかA,Cと違っているところがあったら、そこに込められた作曲者の意図を汲み取ることが
八百板さんのおっしゃる通り、演奏家の取り組むべきことだと思います。
ソナタ形式の提示部と再現部の関係もそうですね(そもそもソナタ形式は舞曲などの2部形式から生まれたものです)。
AとA’は終わる時の調が違うのですから、少なくともその分の音符は違って作曲されています。ただ、その違いを音符任せにしないで、演奏家自身の心に取り込んだ上での意味の表明であるべきですね。
古典派ですと、モーツァルトや、もっと後のベートーヴェンの初期のソナタでも
展開部の初めと再現部の終わり(楽章の終わり)に繰り返し記号がついていますが、
それを楽譜に忠実に繰り返す演奏は、あまり多くないようです。
メヌエット・スケルツォの楽章で、トリオの後でメヌエット・スケルツォに
戻ってきた時に全部繰り返す演奏(AABA’BA’-CCDC’DC’-AABA’BA’)は、
古楽オーケストラやフォルテピアノによる演奏で、やっと増えてきたような
気がします。
フォルテピアノによるベートーヴェンのピアノソナタのCDで、
メヌエット・スケルツォの繰り返しのたびに即興風に変化を入れている演奏があり、
当時はこういうふうに演奏するのが常識だったんだな、と思いました。
繰り返し時の即興と言えばロンド形式もそうですね。あるフォルテピアノ奏者がコンサートでモーツァルトのトルコ行進曲をプログラムに載せると、聴衆は「今日はどんなアドリブが聴けるのか?」とワクワクしてチケットが売れるんだそうです。
思い出したのですが、CDによっては、ソナタ形式の提示部の繰り返しを省略することもあるようです。
もしそれが「CD(レコード)の収録時間の都合で」というのだとしたら、それは
ちょっと、演奏者・企画者の音楽に対する姿勢を疑ってしまいますね。
ベートーヴェンも第九では第1楽章のソナタ形式で提示部を繰り返さないように作曲しています。元をたどれば舞曲の2部形式が起源だったとはいえ、曲があまりに長くなってしまうと、繰り返すことの効果よりも弊害のほうがおおくなると考えられたからでしょう。