簡単に弾けても簡単には弾かない(ビデオ付き)
鍵盤楽器は便利な楽器です。とりあえずキーを押しさえすれば正しい音程の音が出ます。弦楽器や管楽器などと違って、指を一本動かすだけで一つの音が出せます。オクターブの跳躍だって、手を一杯に開けば小指と親指で簡単に弾けてしまいます。
このように、一つの音を出すことをとことん簡単にした結果、たった一人で4声のフーガを弾くなどということも可能になったのです。じつに合理的な発想です。鍵盤楽器がヨーロッパにしか生まれなかったのも、民族性を反映しているのでしょうね。
でも、良いことの陰には悪いことがあるものです。簡単に音が出せると、つい無意識に弾いてしまい、安易な演奏になってしまうのです。たった一人で何人分もの旋律を同時に弾くことで頭が一杯だったり、右手に速い音符がたくさんあって難しかったり、そういうときの簡単な左手の音は、どうしても無意識に安易に弾いてしまいがちです。間違った音を弾いてはいないけれども、まるで魂がこもらない「ただの音」に成り下がっています。
そんな時、私は「弦楽器や管楽器や声楽でこの音を出すのは簡単だろうか?」と自問します。そうすると、鍵盤楽器にとっては簡単なその音を、他の楽器や歌ですごく苦労して頑張って演奏している姿が目に浮かびます。音楽において「苦労して頑張って」というのは決して無駄なことではありません。むしろそのことによって音楽が生きてくるのです。
その具体例をひとつ、先日収録したばかりのビデオで説明したのでご覧下さい。オクターブの跳躍は手を一杯に開けば小指と親指で簡単に弾けるのに、全然違う指を使いましたよ。
それを踏まえて、この曲を通してお聴き下さい。
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これ面白いですよね、通奏低音と楽器、なにのつもりでやっているかは、総譜からピアノ編曲した譜なんかを練習すればこれはフルート音でしょとかバイオリンはとか通奏低音のビオラダガンバはこうやって、とかわかってくるとおもいますが、それをしないと、楽器を複数練習しているとかの人でないと、たとえばシンフォニアから逆算するのは厳しいかもという気はします。
あとは楽器が特定できたとして譜の音をピアノでどう出すかの計算も(たとえばフルートでスタッカートがついているの、あれピアノではしないでいいのではとか)若干必要だけど、これは楽しみながら自分でやればいいかなと(ある程度、裁量や解釈相違はあるでしょうし)。
グールドがけったいな指使いやペダル使いしているの、結構そういうのがあるのかもとおもってDVDをみています。
こういうことをまとめて解説している本とか、ないものでしょうか。
おっしゃるとおりですね。
私だって、5年くらい前までは「あの楽器」と思っていたのに、今では全然違う「この楽器」と思い直す、なんていうことも少なくありませんよ。
あと、その楽器のイメージをどうやって鍵盤楽器で表現するかもですね。
そういうことを全部まとめて「解釈」というのでしょう。
正解が一つではないところが、芸術の奥深さだと思います。
マタイ受難曲やヨハネ受難曲の、福音記者のレチタティーヴォは、たしかにそうですね。
オルガンの左手が単音で書いてあるところへ、レチタティーヴォの調を示すように和音を右手で重ねて、
そして一拍おいて福音記者が歌い始める、となっている箇所が多いです。
そのとおりですね。
そして、そのように書いてあるたくさんの「冒頭の和音」を、全部しっかり強調してよいわけでないのがまた難しいんですね。直前の曲の終止の和音との関係とか、歌詞の内容とかに応じて、静かにさりげなく弾く場合も結構あります。
6/11付のブログのコメントでヘンデルに触れたことで思い出したのですが、
いわゆる「調子の良い鍛冶屋」の最初の左手のEの単音は、たった一つの音なのに
これがなかったら曲全体の印象が全く変わる、効果的な音だと思いました。
ずっと後の時代、ベートーヴェンの「田園」の最初がヴィオラとバスの、それも「空虚の五度」で始まるとか、曲の冒頭には、作曲家の様々な工夫が感じられます。
メロディー以外の音が聴けると、音楽の楽しみ方が深くなりますね!
八百板先生
しばらく(パソコンの)メールを開けておらず、久しぶりに、このブログを拝見しました。
新鮮で、とても楽しかったです。
ありがとうございました。
忘れないでいてくださって嬉しいです!