「魂のよりどころ」と言われました!
ごめんなさい。今日は自慢話になってしまいます。
4年前に私が立ち上げた「新潟バッハ管弦楽団&合唱団」が、いよいよ団員の皆さんによる自主運営に移行するために、まもなく初めての総会が開かれるのです。その総会に向けて、今までずっと私が一人で抱え込んでいた大量の事務仕事を引き継ぐための準備を進めています。
昨日もその関係で、あるサポーター会員の方に、その方が先日振り込んでくださった年会費の件で確認のお電話を差し上げました。団員の方々とは練習のときにいつもお喋りしていますが、サポーター会員の方とはなかなかお話しする機会もありません。もう80歳を超えていらっしゃるかと思うその方にお電話を差し上げると、恐縮されているような、でも嬉しそうな口ぶりです。そして、ひととおり用件を話し終えたときに言われたのがこれです。
「どうぞ健康にお気をつけ下さい。八百板さんは私たちの魂のよりどころなのですから。」
「魂のよりどころ」とは、あまりにもったいないお言葉です! でもとても嬉しかったです。それにしても、年齢からすれば私のほうから健康について言わなければいけない立場なのに。
サポーター会員になってくださる方の多くは、私たちの公演をお聴きになって、それで「こんな素晴らしい音楽を頑張って演奏している人たちを応援したい」と言って入会して下さいます。ですから、じつはサポーター会員の方々の心を動かしたのはバッハの偉大な音楽の力なのですが、今日お電話した方も、それを私の力だと思ってくださっているようなのです。
よっぽど「それは誤解です。私の力ではなくて、バッハの力です。」と申し上げようかと思いました。でも、それは言わないで、お言葉をありがたく頂戴しました。
先日のブログで「私は、すみません、という言葉を使わずに、ありがとう(またはごめんなさい)と言うようにしています」という趣旨のことを書きました。じつは私は言葉の使い方についてもう一つの主義を持っています。それは、「むやみに謙遜しない」ということです。
日本では「謙遜は美徳」と昔から言われていることは知っています。それでも敢えて、謙遜しないでありがたく頂戴するのです。
思うに、相手の人が私をほめてくれるときというのは、お土産やプレゼントをくれるのと同じ気持ちだと思うんです。好感を持って高く評価していることを伝えたいんです。それを、「私なんか全然立派じゃありません」とか「あなたは誤解しています」などと言い返すのは(実際に立派じゃなくて誤解だとしてもですよ)、相手の気持ちを大切にしていないことになると思うんです。
かといって、「はい、そうです。私は立派な人間です。」とふんぞり返るのは嫌ですよね。で、私は「ありがとうございます。そうおっしゃっていただけると本当に嬉しいです。あなたこそ、心遣いのすてきな方でいらっしゃいますね。」とお返しします。
さっき「私の力ではなくて、バッハの力だ」と書きました。バッハの音楽は本当に偉大なのですが、決して「どうだ、こんな曲を作る私はすごいだろう?」などと偉ぶったりしないのです。「私バッハの力ではない、神が作りたもうた音楽そのものの力だ」と言っているような気がするのです。
バロック音楽以前の古い時代、数学的な対位法を駆使したきわめて高度な作曲技法の追求が価値あることとされました。それは、作曲の能力を自慢するためなんかではなく、神がこの宇宙を創った数の比例の神秘を解き明かして、それを人間の耳にも聞こえる音にして人々に示すことが音楽家の使命なんだという信仰心からだったそうです。作曲を究めることは、後世のような個性の追求ではなく(まして自慢なんかではなく)、真理の探究だったというのです。
私はバッハみたいに直接宇宙の真理を追究することなんかできません。でも音楽の救われるところは、こんな私でも、作曲家の心を追及することならできるという点です。私がバッハの楽譜から感じることを団員の皆さんに伝え、そうして広い会場いっぱいに鳴り響いたバッハの音楽がお客様の心を動かしているのです。
去る12月2日に上越市で演奏したバッハのヨハネ受難曲全曲公演では、会場のお客様がたくさん泣いていらしたそうです(指揮者の私は後ろ向きだったので分からないのですが)。これは、私や団員の皆さんを仲立ちにして、お客様がバッハと直接つながったからと言えるでしょうか?
可能ならその先の、バッハが目指していた宇宙の真理にまでお客様をご案内できるようになるでしょうか? ここ新潟の地で、私にどれほどのことができるのか、生涯追及する価値のある問いです。
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おはようございます。対位法とは、宇宙の真理を数字で読み解くことなのですね。勉強不足で、こちらを読んで初めて正しく認識できました。ありがとうございます。キリスト教とは異なりますが、日本の神様も西洋の神様も、私たちにメッセージを送る時は数字で示すそうです。対位法も数字のメッセージなのだと思いました。時間を見つけて、勉強したいです。「謙遜せず誉め言葉で返す。」素敵な実践ですね。私も見習います。
コメントありがとうございます。
この話題に関心を寄せてくださって嬉しいです。難しい話より癒しのメロディーを好む人が普通だと思うので、日頃からこういった話題はちょっと我慢しているんです。対位法と数字の関係については、ちゃんと説明すると本の一章が書けてしまうほど深いです。このブログでも時々、少しずつお話ししていこうと思います。
日本の神様も数字ですか。それは認識していませんでした。ただ音を奏でるだけでなくて、こういったことまで全部つながっていると思うと、世界の見方が広がりますね。
「魂のよりどころ」とは、素晴らしい褒め言葉ですね!
八百板さんの活躍を、どれほど心待ちにしているかが伝わってきました。
バッハの自筆譜には、曲の最後に「SDG(Soli Deo Gloria 神にのみ栄光)」と書かれているそうですね。
ヨハネ受難曲の上越公演の時にはきっと、八百板さんが所信表明に書かれた
「バッハが降臨した」のでしょう。私もぜひ、その場に居合わせたかったです。
いつも嬉しいコメントをありがとうございます。
「SDG」はヘンデルのメサイアの自筆譜の最後にも書いてありますよ。
なるほど。
そうすると、イタリアやイギリスで活躍したヘンデルも、
信仰は生まれ故郷のプロテスタントだった、ということですね。
「SDG」がプロテスタントだけに限ったことなのか、私は知りませんけれど。
でもヘンデルがカトリックに改宗したという話は聞いていません。
私も「よりどころ」だと思っていますよ!
身近にチェンバロスタジオがあるというだけで楽しい気持ちになりますし、心に絶え間なく音楽が流れている方と時間を共有することは私にとってとても有意義です。
ああ、なんと嬉しいお言葉!
見附のチェンバロスタジオを、もっと多くの人に来ていただけるような場所にできるといいな、とずっと思っています。今年は何か素敵なアイデアを思いつくかもしれません。
「心に絶え間なく音楽が流れている」のは、本当にそうで、今これを書いている間もずっと、さっき通奏低音を練習していたマタイ受難曲のアリアが頭に鳴りっぱなしです。なのでしょっちゅう手が止まります。
昨年に八百板正己先生に初めてお目にかかり、パイプオルガンの演奏を拝聴しました。以来、ステキなメールを頂く事になりました。今回、「『すみません』と言いません。『ありがとう!』と言う事にしています!」との言葉と言い、また、『魂のよりどころ』の言葉と言い、私への心の糧の言葉となりました。とても励ましの言葉となったので感謝を申し上げたく発信させていただきました。ありがとうございます!
嬉しいお言葉をありがとうございます!
牧師先生というお立場で日々多くの方々に心の糧を授けていらっしゃる方から、そのようにおっしゃっていただけるとは光栄です。私もまた別の人から教わったこれらの言葉を、高橋先生がこんどは山形の地で教会の方々に広めてくださり、そのようにして良い言葉が世界に満ちると素晴らしいですね。