総譜から作品解釈の手がかりを得る
先日、新潟県を代表するフルート奏者の浅利守宏さんにスタジオに来ていただいて、バッハのフルートソナタ変ホ長調の合わせをしました。3つの楽章合わせて10分しかかからないコンパクトな曲なのに、2人でなんだかんだと細かいところまで議論して、結局3時間近くもかかったんですよ。
浅利さんの演奏からは私も得るものがたくさんあります。鍵盤楽器というのはとにかく音符が多いものだから、それと格闘するばかりで旋律の美しさを見失うこともあったりします。でも浅利さんはフルートに与えられた一つの声部だけをとことん吹き込んでいて、歌いまわしも変化に富んでいます。「なるほど、フルートがそう来るなら、チェンバロはこう返そう」というような刺激を受けます。
それはそうなのに、今回もまた私たち2人のやり取りの多くを私からの提案が占めていたと思います。よくある「伴奏者はフルートの言いなり」という状況とは逆ですよね。他の方とアンサンブルする時も、つい私のほうがたくさん喋ってしまいます。でも私は旋律楽器を支配下に置こうとかいうつもりは無いんですよ。
原因として思い当たることがありました。使う楽譜です。
旋律楽器の方は、自分の音だけが書かれた「パート譜」を見て演奏します。自分に任された旋律に神経を集中することができます。すべての音に心を込めて旋律を歌うことができます。
いっぽうで、ピアノもそうですが、アンサンブルでの鍵盤楽器は旋律楽器の音も全部書かれた「総譜」というものを見て演奏します(英語では「スコア」と呼びます)。ふつう、アンサンブルをリードするのは旋律楽器でも、まとめるのは鍵盤楽器の仕事なので、曲全体がどうなっているのかを見渡せる総譜はとても役に立ちます。
その総譜ですが、単にアンサンブルをまとめることを超えて、作品を解釈するのに役立つたくさんの手がかりを提供してくれるのです。
「フルートのこの部分は、拍に縛られないでもっと自由なリズムで吹いたらどうでしょう? だって、この部分のチェンバロの右手も左手も音を伸ばしているだけだから。」
「フルートのこの1拍目の最初の16分音符は、前の小節のフレーズからの続きだと思います。だって、次の小節で同じ主題を追いかけるチェンバロの右手で、1拍目の最初が16分休符だから。」
「フルートのこの音は、旋律の見かけによらず、もっと悩ましげに淀んだらどうでしょう? だって、フルートはチェンバロの左手と減七度の不協和音程を作っているから。」
こんな具合です。一つの声部だけ見ていて「ここはどっちの解釈が妥当かな?」と迷っても、総譜を分析すると答が書いてあることが多いんですよ。
私が総譜の分析から得た解釈を浅利さんに提案すると、「そうと決まれば迷い無くその路線を行けばいい」とばかりに、とても説得力のある演奏をしてくれます。私の提案をほぼいつも受け入れてくれるのは、それが私の個人的なアイデアではなく、作曲家自身が考えていたことに近いと思われるからでしょう。作品の解釈とは、個人対個人のアイデア比べではなく、真実を探求することです。
でも、分析結果がどうであれ、演奏しておかしければ、はっきり否定してくれます。そんなときは大抵、私が分析を間違えたか、分析結果を拡大解釈した勇み足です。音楽は頭だけで考えたってダメ。最終的には心で「素晴らしい」と感じなくてはダメですね。
こんなやり取りができる共演者に恵まれて、私は幸せです。
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アンサンブルはおしゃべりしているようなものだと思っています。お互いが対等な関係でないと面白くないです。いいバランスの取れる間柄、うらやましい限りです。
山下さん、コメントありがとうございます。
そのことにお気づきの山下さんは、もうそれだけで音楽の楽しみ方の上級者ですね!
八百板さん!浅利守宏です。
ブログに私を登場させてくださり、ありがとうございます。
私にとって、伴奏してくださる方とは常に共同制作であり、自分が確信の持てない箇所を自信に変えてくださる存在になってます。
練習する時、ピアノスコアと旋律だけの楽譜を並べて練習します。その時、フルートで他の旋律を吹いたり、ハーモニーをアルペジオにして響きを確かめますが、初めて合わせをする時の新鮮さは何とも格別なものがあります。
自分だけで練習していても、イメージ出来なかった部分は確信へと変わり、またイメージしていたものとは全く違う響きだったり。
それは、同じ曲を前にやっていても、また新たな発見があります。
伴奏者を英語ではアカンパニストと言いますが、自分にとってアカンパニストはもっと存在として大切な共同制作者です。
共演者なのです。
自分は八百板さんのチェンバロで上手く踊れる。それがいつも楽しみなのです。
浅利さん、なんと嬉しいコメントでしょう!
旋律楽器の奏者で、練習の時に他のパートや和音まで吹いて確認する人が果たしてどれだけいるのか私には疑問です。浅利さんはそんなに探究心があって、そんなに謙虚で、でも演奏はとてもパワフルで揺るぎない主張を持っているんですよね。
私たちで力を合わせて、「この曲はこんなに素晴らしい」という情報発信だけでなく、「音楽はこうやって共同制作するのが素晴らしい」という情報発信もしていきたいですね。
先生と浅利さん、楽器同士で会話をされたり、深めたりして音楽を作っておられるのですね。
きっと合奏の最高の部分なのでしょう!
いつか、お二人の演奏を聴くのを楽しみにしています。
ありがとうございます! 今月下旬にも一緒にコンサートをします。近日中にお知らせしますね。
およそ3年ほど前の記事ですが、あらためて勉強になります。総譜は大切だ、というより、基本、と考えています。私にとってそのことを深く確認させてもらった八百板先生の存在は、今でも大きいのです。
ありがとうございます。
以前、家合さんには通奏低音のオルガンを弾いていただいていました。オルガンが総譜にかなった演奏をしてくださると、その上に乗る楽器も声も、すごく安心して演奏できるんです。
ありがとうございます。涙が出そうなくらい・・。励みにさせて頂きます。
鍵盤奏者が総譜や大譜表を見ながら演奏するのですから、こちらがリーダーシップ取るのは全く当然の演奏作法でしょう。
特に和音を弾ける楽器は鍵盤しか存在しません。
和声の移行にどの位のメリハリをつけるか(或いはつけないか)の判断は、鍵盤奏者の責任でさえある。
もっと究極的に言うなら、限りなく自身が恰も演奏曲目の作曲者である、と成り切る程で良いと存じます。
ありがとうございます。そうおっしゃっていただくと自信を持てます。
でも、なかなか鍵盤奏者のいう事を聞いてくれない旋律楽器奏者や歌手もいますよね。単に主旋律を担うからと偉ぶるのでなくても、和声の意味を感じ取れなくて私の言う事が理解できないという場合もあるようです。
どんな楽器も声楽も、音大ではピアノが必修だということの意味はそこにあるのでしょう。私自身、子供のころにピアノを習い始めるまでは頭の中でどうしても2声が同時に認識できなかったのに、今では和音も対位法も頭の中で鳴らすことができます。
旋律楽器と鍵盤楽器のやりとり・・・
こういう次元の高い「遊び」は至福のときですね。
作曲した人間の想いをたぐりよせてそこでひとつになったとき
「今死んでもいい」という瞬間をむかえますね。
これが、相手が歌ですと、もっと絶妙な遊び合い、、、、
「今死んでもいい」という悦びを
生きている間に何度もあじわう鍵盤奏者しあわせです。その悦び
たぶん天国にも持っていけるはず。
コメントありがとうございます。
「今死んでもいい」ですか!
そこまで言い切れるのは本当に至福ですね!
私は自分が鍵盤楽器を弾けて本当に良かったと思っています。
横からの口出しをご容赦ください。
伊地知さんのおっしゃる「作曲した人間の想いをたぐりよせてそこでひとつになったとき、
『今死んでもいい』という瞬間」というのが、
八百板さんが所信表明に書かれていた
「作曲家が降臨した瞬間」なのでしょうね。
その所信表明のページ、今の活動の実態にそぐわないので消してしまったんですけど・・・。