幼年期

母から聞くところによると、毎晩なかなか寝付かない私を寝かせるために母はいつも一冊の歌集を枕元に置き、童謡やいわゆる「世界の名曲」を歌ってくれたといいますが、一冊全部歌い終わらないと寝ない私には参ったとのことです。また家に客人が来ると私は得意になってそれらの歌を片っ端から披露したとか。その頃の記憶は全く無いのですが。

音楽に関しておそらく初めての記憶と思うのは、ラジオを聴きながら母に向かって「オルガンの曲って、始まると最後まで切れ目が無いんだね。」と発言している場面です。その時流れていたのは長大なフーガだったのでしょうか。繰り返しも無ければ全声部での休止も無いオルガン曲の響きは子供心にどこか特別のものに感じられたのかもしれません。

リコーダー

学校の授業でリコーダーが始まるより半年前の小学2年生の夏休み、音楽の教員をしていた叔父の所に遊びに行ってリコーダーを初体験しました。私がかなり強い関心を示したからでしょうか、家に帰って間もなく叔父から新品のソプラノリコーダーが送られてきました。それから毎日のように知っている歌(チューリップとか、ぞうさんとか)をリコーダーで楽しんだようです。

半年後、学校の授業でリコーダーが始まってみると、学年中で私だけが半年キャリアがあるので圧倒的に上手なのです。「自分はもしかして才能があるのでは」と勘違いした私はますますリコーダー少年としての道を突き進み、記憶によれば4年生くらいでベートーヴェンの「田園」を吹きながら学校から帰ってくるような変わり者になっていました。

6年生のときには叔父を中心に親戚でリコーダーアンサンブルを作って県大会に出場し、学校教育の枠を超えた音楽活動を称える趣旨もあってのことでしょうが、東京での全国大会にも出ることができました。

フルート、クラリネット

その当時の私にも「リコーダーはバロック音楽では重要な楽器だった」という知識はあり、ブリュッヘンのレコードを叔父がテープに取ってくれたものを聴いたりはしていましたが、子供心に「ベートーヴェンの交響曲に出てくる楽器もできるようになりたい」という思いは強かったようで、ある年の誕生日にフルートが、その翌年くらいにクラリネットが家にやってきました。

フルートは結構熱を入れて練習し、中学生の頃には友人が弾くピアノと一緒にバッハのロ短調ソナタを吹いて楽しんだりしていましたが、クラリネットはリードをくわえる口の筋肉を鍛えるという地道な訓練が嫌であまり物になりませんでした。今から思えば、さっさと学校の吹奏楽部にでも入ってしまえばよかったのに、こういう楽器を部活に入らずに続けるのは難しいものですね。

ピアノ

ピアノを始めたのは小学6年生の時です。みんながやめる頃になって、しかも男が始めるというのですから初めはピアノの先生も心配したようでしたが、始めて3年後の発表会にはシューマンを、その翌年にはショパンのポロネーズを弾くまでになりました。しかし始めるのが遅かったことから指の筋肉の発達が不十分で、薬指や小指の力の無さは自分でも苛々するほどで、その頃から「鍵盤が非常に軽いらしい」チェンバロへの憧れが次第に強まっていきました。

合唱コンクールで指揮

ここで中学時代の思い出を一つ。3年生の時に校内のクラス対抗合唱コンクールで指揮者に立候補しました。2年生の時にはピアノ伴奏を受け持ちましたが、まあピアノは私より上手な女の子もいることだし。それに合唱コンクールの準備は先生方の力を借りずに全部自分たちでしなければならないので、「ここはもっとクレッシェンドだよ!」と横槍を入れたくてたまらない私は結局ピアノ伴奏におとなしく収まってはいられなかったでしょう。

けっこう荒れている中学校でした。私のクラスにも怖いツッパリが闊歩していましたが、そんなクラスの男子全員に、なかなか覚えられない低音パートを教え込むのが私に課せられた最大の使命でした。始めのうちはシラケて全然歌ってくれない男子たちを相手に
「ここはさあ、風にー、じゃあ面白くないからさあ、女子に負けないように、風に~~~! っていう感じね。じゃあもう一回、せーの!」
(全然合ってない音程に)「そうそう、すごくいい感じ! で、もうちょっと気合入れてさあ、確かに音が難しいけどさあ、風に~~~~!! っていう感じにしようよ。じゃあもう一回、せーの!」

こんなことを来る日も来る日も繰り返し、気がつくと男子に負けまいと女子の声も大きくなっていきました。そしてコンクール当日、結果は「優勝」でした。

後で知ったことなのですが、学年末の学級懇談会で、担任の先生はこの優勝のことを男泣きに泣いて親たちに語ったというのです。私の担任は言うなれば「普通の先生」でした。隣のクラスのやり手の先生といつも比較され、「隣のクラスは何をしても成績優秀なのに、うちのクラスは・・・」と落ち込んでいたのに、合唱コンクールで優勝するなんて、こんなに嬉しかったことはなかったそうです。

趣味としてのチェンバロ(前編)

特別に音楽の素養があったわけでもない両親から「音楽家なんかを目指して人生を棒に振るものではない」との忠告をずっと聞かされて育った私は、勉強を頑張って大学の工学部に進学し、入学祝に小さなチェンバロを買ってもらいました。かつてリコーダー少年だった私はチェンバロ青年に成長したのです。

憧れのチェンバロを手に入れた当初は無我夢中で弾きまくっていましたが、趣味としてのチェンバロは実に孤独なものです。アンサンブルの相手にも恵まれませんでしたし、独学だったので教室の発表会というような交流の場もありません。工学部の学生だった頃は家族だけでも演奏を聴いてくれましたが、長岡の機械メーカーに就職してからは独身寮住まいのために周りの部屋が留守の時に人知れず練習するだけでした。

和太鼓、合唱

何とも奇妙な取り合わせですが、趣味としてのチェンバロの孤独さに耐えられなくなってきた私はとにかく集団の一員としての音楽に加わろうと思いました。どうせならやったことの無いものをと思い、重なる時期もありましたがそれぞれ3年ほど続けました。和太鼓は音程の無いリズムだけの音楽、そして半ばスポーツとしての音楽という、今まで経験したことの無い世界で新鮮でしたし、合唱は古楽器オーケストラと共演でバッハのロ短調ミサやクリスマスオラトリオを歌う情熱的な団体でした。

趣味としてのチェンバロ(後編)

あるとき栃尾(現長岡市)の弦楽アンサンブルの演奏会に呼ばれ、意気投合してメンバーに加わってからは孤独ではなくなりました。勢い余って栃尾のメンバー宅の一室を間借りすることにし、栃尾の住民になってしまいました。通奏低音を受け持つことから自然に指揮も任されるようになり、音楽全体を広く勉強しようと努めるうちに、今まで見えなかったチェンバロ音楽の奥深さも物凄さもどんどん見えてくるようになりました。「自分はもしかして才能があるのでは」と21年ぶりに再び勘違いした私はついにプロを目指して機械メーカーを辞職するに至ります。

コントラバス

自分の音楽をもっと広げるために何か一つ弦楽器が弾けるようになりたいと思い、今さらヴァイオリンなどという難しい楽器を始めてもなかなか物にならないからと、栃尾の弦楽アンサンブルで唯一エキストラに頼っていたコントラバスに挑戦することにしました。中学校の吹奏楽でも必ず入っているくらいだから簡単だろうと甘く見ていましたが、右手の技術が思っていたよりずっと難しく、使い物になるには2年ほどかかりました。

栃尾のアンサンブルが半ば休眠状態になってからも長岡の団体に顔を出すなどして続けた結果、最終的にはバッハのブランデンブルク協奏曲第3番やヴァイオリン協奏曲のコントラバスパートを(弾けないところは誤魔化しながらも)発表会のステージで弾くくらいまでにはなりました。

弦楽器のボウイング(弓の上げ下げの技術)を知っていることは、特にチェンバロでイタリア風の曲を演奏する場合に大いに役立ちます。バッハの時代のドイツは先進国イタリアで急速に発達したヴァイオリン音楽への強い憧れがあり、バッハのチェンバロ曲には弦楽器の発想で書かれたものも多数あるので、この部分を弦楽器で弾くなら弓をどう使うだろうかと考えると音楽が生き生きとしてくるのです。

三味線

栃尾に移り住んだ翌年だったか、以前から興味があった隣の集落の葎谷神楽(むぐらだにかぐら)保存会の練習の見学に行きました。ところが、市の無形文化財にも登録されている由緒ある神楽だというのに、三味線担当の人が亡くなってから後継者がいないというのです。見学だけのつもりが、その場で楽器を渡されて保存会に入会して(させられて?)しまいました。楽器の構え方すらも誰も教えてくれないので、自分で本を買ったり講習会に参加したりして何とか弾けるようになりました。

入会から数年後には日韓文化交流事業で韓国でも弾いてきましたし、正月に集落の家々を回って舞を奉納する行事がテレビで放映されたり市の広報の表紙に写真入りで紹介されたりするので、私のことを三味線弾きと思っている方々もいらっしゃるようで。

プロとしてのチェンバロ

30歳にして脱サラし、初めてプロのチェンバロ演奏家(岡田龍之介師匠)の門下に入った私は、すぐに自分が実は何も分かっていなかったことに気付かされました。それまでさまざまな情報に場当たり的に接するしかなく遠回りしてきた私は、今度こそ本物の情報を求めることに意識を集中しました。海外から来日する一流のチェンバロ奏者のマスタークラスを次々に受講し、何度も何度もコンクールに挑戦しました。

ある年のコンクールでのこと、会場に来ていた高名なチェンバロ演奏家である渡邊順生氏に声を掛けられました。

「君はいったいどこの音大で勉強したんだ?」

「1年ほど岡田龍之介先生に習った以外は独学です。音大は出ていません。」

「チェンバロはいつから弾いているんだ?」

「19歳から趣味で弾いていますが、脱サラして勉強を始めたのは30歳のときです。」

「30歳か・・・ぎりぎり間に合ったな。次のコンクールまで2年間、教えてやろうか?」

こうして毎月1回の横浜詣でが始まりました。渡邊師匠のレッスンは1日5時間にもおよび、大きく出遅れた私を精一杯引き上げてくださいました。特に、最も難解なチェンバロ曲として恐れられているフレスコバルディのトッカータを毎月1曲ずつ、いっさいの録音等を聴かずに自力で演奏会レベルまで仕上げてくる、という課題は強烈でした。「すべての音の表現を自分で見出し責任を持つ」ように根性を鍛えられたことは、地方で演奏家として自立していく上で大きな強みとなりました。

指揮

結婚してからは、私の音楽を聴いて正しい方向を示してくれるのは妻の役割になりました。その妻の勧めにより、妻も指導を受けて感銘を受けた高名な指揮者である樋本英一氏の個人レッスンを受けるようになりました。棒の振り方ももちろん習いましたが、私の頭の中に明確に鳴っていない音符が一つでもあるとそれが棒の動きでバレてしまうので、「どんなに複雑な音楽でも全ての音を心の中で歌うこと」を徹底的に仕込まれました。これでどれだけ私のチェンバロ演奏が変わったことでしょう! この頃にはまだ、私が管弦楽と合唱の総勢70人を指揮してバッハのミサを演奏することになるなんて思ってもいませんでしたが。

クラシックバレエ

妻からのアドバイスは続きます。
「演奏中の姿勢が悪いし、歩き方もお辞儀の仕方も格好悪い。私と一緒にバレエのレッスンを受けたら?」
ちょうど妻が通うバレエ教室の大人クラスが「男性可」だったので、私もおずおずと付いていくことになりました。

忙しくてサボった時期もありましたが、足掛け4年近くで90回のレッスンを受けました。この程度で何が踊れるようになるものでもありませんが、美しい姿勢、感情を外に開放する感覚、体の動きから生じる特有のリズム感を知ることができたのは、音楽だけやっていたのでは得られない貴重な成果でした。この頃にはまだ、管弦楽の練習で団員を前にメヌエットやガヴォットを踊って見せて、楽譜からちょっとずれた独特のリズムを教えることになるなんて思ってもいませんでしたが。そうそう、バレエを習ってからというもの、演奏中に肩が凝ることがなくなったし、車を長時間運転しても疲れないようになりましたよ。

オルガン

バロック時代のチェンバロ奏者は同時にオルガン奏者でもありましたから、私も機会を見つけてはオルガンを弾く経験を積むように努めてきました。あの荘厳な音が自分の指先から生まれ、それが会場一杯にずーっと伸び続けるのは快感です!

ドイツを除き、歴史的には足鍵盤を持つオルガンは少数派で、チェンバロの時代に作られたオルガン曲の大半は手だけで演奏できます。足鍵盤の訓練を受けたことのない私は、自分が手でしか弾けない悔しさをごまかそうと、「手だけで弾けるこんなに素晴らしい曲がたくさんあるんだから、私はそういう曲を広めるんだ」と強がっていたものです。

でも、やがて私の頭の中にこういう声がこだまするようになりました。「足鍵盤の訓練が面倒だからと、バッハのオルガン曲の大半を弾かずに一生を終えてもいいのか? 悔いは残らないのか?」一念発起した私は練習用の足鍵盤(音は出ません)を日曜大工で自作し、音大のオルガン科を出た知り合いに足鍵盤のレッスンを受け、バッハ自身が弟子たちの足鍵盤の訓練用にと作曲した曲集を練習し、公開演奏会で発表を続けています。

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