私にとって夢のような一日、つまり朝から晩まで思う存分チェンバロを練習できる一日は、放っておくと一年に一度も訪れません。「他のあらゆることを放置する!」と強引に宣言して予定を空けでもしない限り、そんな一日はやってこないのです。他のあらゆることがとにかく忙しくて忙しくて。

何がそんなに忙しいかですって?

私も駆け出しの頃は時間がたっぷりありましたよ。「演奏家とは、演奏の依頼が来るのをひたすら待ちながら、練習だけしていればいいんだ」と勘違いしていましたから。でもすぐに気がついたのです。待っていても演奏の機会などやってこないのだと。

待っていても演奏の機会はやってこないのですから、自分で作る必要があります。チェンバロという珍しい楽器があること、その楽器を中心としたバロック音楽という美しい音楽があること、その生演奏を間近で聴くのは素晴らしい体験であることを、新潟県の音楽愛好家の方々に知っていただくことがまず必要なのです。

ということで、私は自分の時間のほとんどを「チェンバロを中心としたバロック音楽の素晴らしさを新潟県内に広める」ために費やすようになりました。例えばコンサートのチラシ。以前は素っ気無い挨拶状一枚添えてチラシをお送りするだけでしたが、「こんなチラシ一枚ではチェンバロやバロック音楽の素晴らしさを分かっていただけないぞ」と気がついてからは、一気にすることが増えました。毎月一回お客様に郵送するニュースレターの原稿を書くのに最低でも10時間。特に大切な企画を紹介するお手紙の原稿執筆には20時間はかけます。印刷業者から出来上がってきたそのお手紙とチラシを一緒に折って封筒に入れて郵便局に差し出すのにも10時間。

さあ、そうなると練習時間の確保は大問題です。何とか手を打たないことには「練習時間ゼロの日が1ヶ月連続」などという惨事も平気で起こるのです! 自分で「ああ練習時間が取れない・・・」と焦りを感じる時には決まって「コンサート本番なのに見たことも無い楽譜を初見で弾かされる」という悪夢を見ます。または「なぜか大学生に戻っていて、宿題も予習も全くしていないうえに教科書も忘れたのに、授業で教官に指される」という悪夢。

原稿を書くとか、コピーして折るとか、大量のメールに返信するとか、そういった作業はどんなに工夫して効率化してもせいぜい何割か良くなる程度ですよね。ところが幸いなことに、練習に関しては3倍とか5倍とかの超効率的な方法を自分で工夫して編み出すことに成功したのです。その詳細は長くなるのでここでは割愛しますが、とにかくこれで私は救われました!(詳細は書籍「超効率バッハ練習法」のページをご覧ください)

そう、基本的にはその超効率練習法で救われるのですが、使い方次第で全くの無駄に帰すことも起こり得ます。時間を捻出して練習して得た貴重な成果(ある16小節がほぼ目標のテンポで両手で弾けるようになる、など)も、翌日にその復習ができないと体が忘れはじめますし、数日続けて弾かないとほぼ完全に振り出しに戻ってしまいます。つまり、練習を始めた部分は何が何でも毎日繰り返し練習を積み重ねて、体に覚え込ませるところまで到達しなければならないのです。裏を返せば、明日から数日続けて練習時間が取れないと分かった日には、新しい部分の練習を始めても結局時間の無駄になるので別の作業に回したほうがいいことになります。

練習の効率をもっと劇的に向上させる余地はないかと考えていて、ひとつ気がついたことがありました。私の指にとって難しい特定の動きを含む部分では、曲を体に覚えこませる練習はとっくに済んでいるのにいつまでも弾けるようにならなくて、練習時間を無限に吸い取られていたのです。これは根が深い問題だと自覚して、イタリアで出版された画期的なチェンバロ教則本を購入して基礎練習を一からやり直しました。その成果は半年くらいで現れ始め、一年後にはその種の時間の無駄は劇的に減り、今でも減り続けています。

目の前のコンサートのための練習時間も満足に取れなくて悪夢を見ているというのに、音階やトリルや跳躍などの基礎練習に時間を割り当てるには、相当の覚悟とともにシステムの確立も必要です。毎日の始めはどんなに忙しくても基礎練習の時間と決めて、それが終わらないうちは何も始めてはいけないという規則を作りました。毎日のスケジュールを書き込む用紙の最上段には「1時間目:生涯にわたる価値を生む活動=基礎練習」と既に印刷されてあります。

イタリアで出版されたその教則本には「毎日この本の課題を練習するほかに、バッハの平均律クラヴィーア曲集を弾きなさい」とあります。なのでそれも取り入れることにして、私の一日は「1時間目:教則本+バッハの平均律」で始まるというスケジュールになりました。その時間は携帯電話の電源を切り、気を散らすやりかけの作業もすべて目に入らないところに押し込んで、日常を完全に忘れて静かにチェンバロに向かう至福の時間となっています。

 

私は毎日どれくらい練習しているのか、ようやくお答えできる段階となりました。

まずは「基礎練習=至福の1時間」ですが、こんなに幸せなのに、それでも実行できる日は半分です。なので、平均すると基礎練習が30分です。

そして、目の前のコンサートのための超効率練習のほうは、とにかく連続して練習日を確保することが必須ですから、本番前の数週間などのまとまった期間に他のほとんどのことを後回しにして毎日3時間を割り当てるようにします。ほとんど練習できない期間も同様に数週間続きますし、毎日3時間練習するつもりでも実際に実行できる日は半分なので、平均するとコンサートのための練習は3時間÷4=45分です。

合計1時間15分。これが私の毎日の練習時間です。少なすぎ!! そう、少なすぎです。いくら「チェンバロを中心としたバロック音楽の素晴らしさを新潟県内に広める」ことが大切でも、練習不足でコンサートを台無しにしては本末転倒です。あとは自分で作った規則を破ったり夜更かしをしたりスタジオに泊まり込んで通勤時間を節約したりと、臨機応変に時間を捻出しています。