謙虚になる

「八百板さん、あなたは謙虚ですね。」
「え? そうですか?」

先日のオルガンコンサートを主催してくださった山形県酒田市の教会の牧師先生との会話です。本番前日の夜には教会のゲストルームに泊めてくださり、三度のお食事もご馳走になり、いろいろなお話をする事ができました。その中で幾度となくこのようにおっしゃっていただいたのです。

私はなかなか実感が湧きませんでした。でも、牧師先生とお話をするうちに分かってきました。

音楽家で、自分の演奏に満足して絶対の自信がある、という人がいるのかどうか知りませんけれど、私はそんなことはありませんよ。音楽のことが分かってくればくるほど、自分の中の理想像はどんどん高くなるのに、実際の演奏が急にそんなに感動的に向上するものではありません。ギャップは広がるばかりです。

 

ああ、でも今にして思うと、アマチュアの頃は、そして「今日からプロです」と宣言して間もない駆け出しの頃は違ったかもしれません。
「音は一つも間違えていないのに、どうして客席はざわざわして集中してくれないんだろう?」
「みんながよく知っていると思う有名な曲を弾いてあげているのに、どうして客席はざわざわして集中してくれないんだろう?」
こんなことを思いながら、具体的に自分は演奏の一瞬一瞬に何に集中して何を求めたらいいのか、目標が定まらない散漫な演奏でした。どういう演奏をすれば自分が高く評価されるか、そんな邪念にも気を散らしていたと思います。

やがて分かってきました。誰も八百板正己を聞きたいわけじゃないんですね。チェンバロの素晴らしい音色に包まれたい、美しいバロック音楽に酔いたい、バッハを始めとする天才の偉大な精神に触れたい・・・。ほんとうはコンサートでバッハ自身が演奏すればそれが最高なんです。でも、もうそれは叶わないから、その代わりに私がいます。私の役目は皆さんをバッハに引き合わせることであって、自分が自慢をしたって意味がありません。

このように私の考えが変わったのも、みなコンサートのお客様のおかげです。自分のことは考えず、お客様を天才作曲家に引き合わせるようなコンサートができたときにだけ、会場が特別な高揚感に満たされます。そういう経験を積み重ねるうちに、私自身もその特別な高揚感の中に居たいですから、意識して仲介者であろうとするようになりました。このごろではコンサートの企画自体、目標をそこに定めて立案するようになっています。曲間のトークもすべてがそこに向かいます。

 

音を弾き間違えることの意味も変わってきました。私が弾き間違えたばっかりに、お客様の気が散って、天才作曲家の偉大な精神が伝わらなくなっては大変です。
「バッハなんて、やっぱり難しくて退屈だよね」
と思われたらどうしよう! だから、どんなに弾き間違えたって一瞬で立ち直り(「開き直り」というべきでしょうか)、自分の役目を果たすことに集中しようと思えるようになりました。結果として、気分的には楽になりましたよ。人間は「自分が格好悪い」ところを見られるのをものすごく恐れる生き物ですから。

でも、上には上がいます。世界的な偉大なピアニストの発言で「間違えることで作曲家の精神を捻じ曲げてしまうのが恐ろしい。だからステージに立つのが怖い。」というのを聞いたことがあります。間違えることに対して気分的に楽になっている私はまだまだ未熟者ですね。でもいいんです。「自分がどう見られるか」という囚われからとりあえず解放されることが大切な一歩だから。その先の課題はこれからです。

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謙虚になる” に対して1件のコメントがあります。

  1. 家合映子 より:

    八百板正己先生、ありがとうございました。
    私自身は、謙虚とはほど遠い者である、と思います。
    が、また、私は礼拝の中でオルガンをずっと弾いてきたので、
    そういう意味では恵まれてきたのかもしれないなあ、と、
    先生のお話を読ませて頂き、(あらためて)そう思いました。🐟。

    1. 八百板 正己 より:

      家合さん、コメントありがとうございます。
      たしかに、礼拝でのオルガン演奏は始めから目的がはっきりしていますね。
      その経験は貴重だと思います。

      1. 家合映子 より:

        “礼拝でのオルガン演奏は始めから目的がはっきりしていますね。”そう、八百板先生が仰られたこと、”すごいなあ”と思いました。
        塚田牧師先生のコメントも読ませて頂きました。そのように(試されると書いてくださったように)、私たちは揺らぐものであるー実感してきました。でもそれで終わりじゃないー(続)。🐟。

  2. 塚田泰司 より:

    私も、礼拝の讃美歌のオルガン伴奏をします。プログラムの中で、奏楽というソロ演奏の部分もあります。
    毎回自分が試されます。これはバッハの合唱を歌っていても同じです。私にとっては自分でなく、神の栄光を現わしているか、賛美歌を歌っている人の気持ちを汲み取って弾いているか・・・などです。
    大変興味深く読ませていただきました。

    1. 八百板 正己 より:

      塚田さん、コメントありがとうございます。
      さすがは牧師先生、おっしゃることの重みが違います。
      その心がけでオルガンが演奏される礼拝に参加できる方々は幸せでしょうね。

  3. 家合映子 より:

    礼拝の奏楽の件(書かれたコメントを読んで)ですが、礼拝式順の中で確かに前奏曲(また後奏曲)等がありますが、今までそれを”演奏”という言葉で表現する感覚や意識を、私は持っておりませんでした。(今回の記事を読ませて頂き、あらためて気が付きました)(礼拝奏楽の中でのオルガンは)基本的には自分の演奏ではないので・・。私の意識(大切にしてきたこと)としては、牧師先生の語られる説教(あるいは選ばれた聖書箇所)に焦点を合わせ、それに合わせて選曲し、それに向かって携わってきたつもりでした(プロテスタントの場合は説教が礼拝の中で占める位置は大きいですから)・・だからこそ学ぶべきことが沢山ありました。そしてこのブログを通して以前にも気が付かされたこと、他にもあります。少し億劫にも感じますが、私自身の課題として考えてみます。ところで八百板先生、この話題と直接関係のないことで申し訳ありませんが、今一生懸命、6月の演奏会に向けて、通奏低音の練習をしております。まるで宇宙の(世界の)よう(通奏低音は)、昨日そう思いました。🐟

    1. 八百板 正己 より:

      家合さん、コメントありがとうございます。

      気が付かないでいたことに気が付く、それこそが向上のための第一歩ですね。それまでに何となく感じてはいたことでも、はっきり言葉で表現することによって、いま自分はどこまでできているか、どこに目標を定めたらいいかが見えてくることでしょう。

      よく考え抜かれた通奏低音は、作品全体を包括するものとなりますから、その曲の演奏に携わる誰よりも大きな世界を丸ごと受け入れることになります。それを「宇宙」と表現なさる家合さんの感覚は素晴らしいと思いますよ。

      1. 家合映子 より:

        八百板先生、ありがとうございます。😿。

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