要目表

モデル ドイツ様式2段鍵盤
製作者 マルティン・スコブロネック(Martin Skowroneck)1966年
寸法 長さ2310mm、幅950mm、本体厚さ280mm
重量 本体55kg、脚14kg
レジスター 8’+8’+4’、バフストップ
音域 GG~f3、59鍵
ピッチ a=415

 

要目表の説明

モデル

バロック時代の音楽は国によって曲の様式が非常に異なっていただけでなく、チェンバロやオルガンといった鍵盤楽器も各国の曲のあり方に対応して変化に富んでいました。チェンバロの様式の代表はイタリアとフランス、そしてフランスの様式の元となったフランドルの3つで、現在世の中に出回っているチェンバロもこの3つでかなりの割合を占めると思います。

これに対してドイツのチェンバロはバロック当時の楽器の現存例が少ないことなどから研究が遅れ、一見するとイタリアとフランスの中間的な性質であることから「どっちつかずの折衷品で中途半端」「所詮当時のドイツは発展途上国で、イタリアとフランスを混ぜただけ」といった誤った認識も持たれていたようです。

しかし近年になってその方面の研究も徐々に進み、イタリアとフランスの折衷であるどころか、最初期のチェンバロの源流の流れを受け継いでいる重要な存在であると認識されるようになってきました。基本的な構造はイタリアの楽器と共通する部分が多く、基音のしっかりした芯のある音ですが、程よい減衰の長さと倍音の性質から、特にフーガのような多声部の対位法作品に威力を発揮するようです。

製作

スコブロネック氏は今や伝説的ともなった現代ドイツの名匠です。1960年代にチェンバロの巨匠レオンハルトのために素晴らしい楽器を提供したことで名声が高まり、一時は世界中から集まった注文が30年分もたまっていたといいます。

1960年代といえば、世の中にはまだピアノの製造技術で作った鋼鉄製の「モダンチェンバロ」しかなかった時代ですが、その当時からすでにバロック時代の楽器の詳細な研究に基づく「歴史的チェンバロ」を製作していた数少ない人です。現在では私が持つ残りの2台も含めて歴史的チェンバロが当たり前になりました。

2014年に88歳の生涯を閉じるまで精力的に製作を続けたとはいえ、一人で手作りの作業ですので世界中合わせても彼の楽器は何百台もあるものではありません。日本には彼の製作による6台のチェンバロと2台のクラヴィコードがあるという情報を得ていますが、その中の貴重な1台を入手したわけです。

音域

この楽器の持つGG~f3という音域はJ.S.バッハの全チェンバロ作品を弾くのに必要な音域と言われ、バロック最大の作曲家と目されるバッハはドイツ人ですので、スコブロネックがドイツ様式の楽器を製作するに当たって音域の設定でそれを意識したことは十分に考えられます。しかし実際には最高音のf3が必要になる曲は3重協奏曲の1曲だけで、最近ではその曲をバッハの真作ではないとする研究も多いようですが、私としてはバッハ以外の曲でこの最高音が必要になることもあるので助かっています。

 

写真で見る細部

交わる木目

この楽器はほとんど全ての部分が楢(ナラ)の木で作られているのが特徴です。楢材は切り出し方によって木目と交わる方向にも木目のような模様が現れますが、楽器の隅々までこの特徴的な交わる木目が美しく現れるように良い材料を選びぬいて使っているようです。写真の部分などは特に光の当て方や見る角度によって木目がさまざまに変化して見えます。木目を生かしたということは私の他の楽器のような装飾は施されていないということですが、あるチェンバロ製作家の方からは「この木目を出すのは大変なことなのだから、決して塗装などで潰してはいけません。」と言われました。

鍵盤周り

美しい木目以外には装飾らしい装飾がほとんどない中で、鍵盤の周囲にだけは1mm以下の薄い木を寄せ木細工のように組み合わせた装飾が施されています。

鍵盤はピアノと白黒が反対で、黒鍵は黒檀の木、白鍵は牛骨の貼り付けです。長年使い込まれてピカピカになった黒鍵には白鍵が写っています。

ジャック周辺

手前に並んでいる黒い棒は弦の一端が巻き付けられた「調律ピン」で、これを専用の工具で回して調律します。この楽器に限らずチェンバロの弦は大変細く、低音域の一番太いものでも0.6mm程度、高音域では0.2mmという細いものが使われます。

調律ピンの向こう側に並んでいるのは「ジャック」で、弦をはじく爪と消音のためのダンパーが付いていて、鍵盤によって押し上げられます。歴代の所有者が自分の手持ちの材料で補修を行っているので、ダンパーなどの消耗部品は色も形もまちまちです。

スコブロネック氏が作る楽器の脚はどれも素っ気無いほど簡素だと聞いています。その理由として、脚の製作に時間をかけるくらいなら1台でも多く別の楽器を作る時間に回したい、と彼自身が発言しているとかいないとか。彼の楽器を手に入れた人で、脚だけ他の製作家に作り直してもらう人も少なくないようです。

 

何もかも普通でない

お金で買えない

この楽器はお金さえ払えば手に入るものではないのです。スコブロネック氏が作った楽器は世界中に何百台もあるわけでない上に手放そうという人も少ないので、中古市場にもなかなか出てこないそうです。私の楽器の前の所有者氏も(氏の意向により詳しくは書きませんが)より優れたスコブロネック製チェンバロを手に入れたために手放したのですし、私に回ってきたのも 「こういう優れた楽器はオークションなどで訳の分からないアマチュアの手に渡したくない」という氏の意向によってでしたので、結局は中古市場に出ることなく個人対個人で取り引きされたのです。おそらく他にもこの楽器を狙っていた方は大勢いらっしゃったのではないかと思います。

価格

具体的な金額はここでは書きませんが、国産の新品よりも高額でした。それでもオークションにでも出せばもっと高い値が付いたでしょうに、良心的な価格で譲っていただいたと思っています。

ちなみに、こういう世界的な楽器になると中古品でも価格が下がらず、上手に使っていれば年月とともに却って値上がりするものだそうです。この「上手に使っていれば」というのが重要で、世の中には高価なチェンバロを数多く収集するのを生き甲斐にしている人もいるようですが、使わないで置いておくだけでは楽器は少しずつ痛んできますので、いざ手放すときには世界的な楽器に見合った確かな技術者による調整が必要になってお金がかかります。チェンバロ収集で財テクはできません。

年代物

この楽器が作られた1966年には私はまだ生まれていませんでした。次から次へと新しい物が作られては捨てられていく現代で、自分より年上の物との付き合いは私にはほとんど経験のない事です。ヴァイオリンなど弦楽器の世界ではさほど珍しい話ではありませんが、チェンバロは本格的に復興したのが本場ヨーロッパでもここ数十年のことですので、自分より年上のチェンバロを弾ける幸運はそう簡単に得られるものではないと思います。

出てくる音は何とも言えない深さを持っていますが、物理的にどうだという以前に「これは自分より年上なのだ」という思いが私には重要です。表現したいことがうまく弾けなくても楽器のせいにする気持ちにはならず、私が楽器を所有しているのか、奏者として楽器に使われているのか、分からなくなることもあります。

ついでに言うと、楽器の製作年でいえばほとんど年の差はないのですが、出てくる音の凄さの向こうには巨匠スコブロネック氏の影がちらついて、もうそうなると完全に私はヒヨコです。うまく弾けないと「至らぬ若輩者ですみません」と言うしかありません。

すごい音

下鍵盤の8フィートで普通に音階を弾いただけでも、高らかに謳い上げる高音域、訳知り顔に語る中音域、床を震わす力強い低音域、と私の貧弱な語彙では到底言い表せない魅力を持っています。そして、これが弾き方次第(鍵盤をゆっくり押す、すばやく押す、軽くなでる、手の重さを乗せる)でさまざまに変化するのです。ですから「チェンバロは弾き方で強弱を付けることができない」というのは全く誤りです。私の技術でもこの楽器を使えば1割から2割はちゃんと強弱を付けることができますし音色も変わります。

さらに上鍵盤、上下の鍵盤の連結、4フィートの重ね合わせ等で得られる音色の各々に同じ事が言え、8フィート1列でも力強い表現ができるかと思えば、8+8+4の最も華やかな音色でも柔らかい表現が可能で、もう何をどうしていいか分からなくなります。極めつけはバフストップ(弦の端に革片を当ててリュートのような音色を出す装置)ですが、普通のチェンバロでは「ポン」という音しか出ないところが、この楽器は何と「ボオオンーーー」とチェロのピチカートのような太い豊かな音で鳴るのです。

豊かな音で鳴るからといって、爪が弦をことさら強くはじいているわけではありません。鍵盤にかかる抵抗はいたって軽いものです。小さな弦の振動から最大限の楽器の振動が生み出される様は本当に驚きです。

難しい取扱い

良いことの陰には苦労が付き物です。

弾き方

弾き方によって強弱や音色が敏感に反応するということは、上手に自分の手を制御しないと意図しないところにアクセントや汚い音が頻発することを意味します。渡邊順生師匠のお宅で師匠所有のスコブロネックでレッスンを受けているときにも「どうしてそこにそんなアクセントを付けるんだ?」「いえ、単に手の都合です。すみません。」こんな事がしょっちゅうでした。

この楽器の爪は現代の代用品のプラスチックではなく、昔ながらの鳥の羽の軸です。寿命も短いですし、第一プラスチックのように厚さの一定した規格品が既に大体の大きさに切断されて供給されるわけでなく、いちいち自分で削り出さなくてはなりません。そして、楽器にふさわしい種類と大きさの鳥の羽を入手するのもなかなか大変で、かなり太目の羽の軸、それも空を飛ぶ鳥の羽でないと見かけの割に柔らかかったりして使えません。また、弾いていると油切れを起こして急に(数分で)ものすごく硬くなって演奏不能になることもよくあるので、定期的に(数ヶ月に1回)オリーブ油を塗ることも必要です。(演奏会中など緊急の場合は鼻の脂や耳の脂でも効きますが。)

ただし鳥の羽には代えがたい利点があります。音が素晴らしいのは言うまでもありません。鳥の羽特有の音を知ってしまうと、CDを聴いても違いが分かるほどです。プラスチックの爪がはじく音を「ピーン」と形容するなら、鳥の羽がはじく音は言葉に表せないような複雑な子音がその前に付きます。そのことで、音符一つ一つに魂が宿るのです。

鳥の羽の利点をもう一つ。プラスチックが前触れもなくいきなりポキッと折れるのに対して、鳥の羽は数日かけて徐々に腰が弱くなっていきますので、演奏会の前に弱くなり始めたものを交換しておけば本番中に折れる心配から開放されるのです。

なお、この楽器で鳥の羽の素晴らしさを知ってしまった私は、私が所有する残りの楽器(久保田彰2000年製作フランドル様式2段チェンバロ久保田彰1980年製作フランドル様式ヴァージナル)の爪も、一冬かけて全部鳥の羽に交換しました。

湿度

チェンバロはそもそもヨーロッパで発達した楽器で、なおかつこの楽器はヨーロッパで作られましたので、日本の梅雨時の高温多湿下でも安定した動作をするという配慮はされていません。ですから、時にはジャック(爪が装着されていて、鍵盤によって押し上げられる木片)が上がったまま下りてこなくなったりします。国産の楽器でも製作から1、2年はそういう事もありますが、この楽器は日本に来てからもう何年も経つのに未だにそういう事が起こります。大抵はジャックを手で少し持ち上げて左右に力を加えながら上下させると木の毛羽立ちが取れて直りますが、時には棒ヤスリでジャックのはまる部分を慎重に削ることも必要になります。(やりすぎるとジャックの動きがガタガタになって発音が不安定になります。)演奏会場は湿度が適切に管理されているとは限らず、リハーサル中は大丈夫でもお客様が入ることによって湿度が上がることも見越して対処する経験が求められます。

 

今後の展望

素晴らしい楽器だからといって、万能というわけではありません。バロック初期の音楽を演奏するにはやはり減衰が長いのが気になりますし、バロック後期でもフランスの音楽にはこの楽器の芯の太さはあまり合いません。しかし弾き方に敏感に反応するこの楽器で十分に練習した後で他の楽器に移ると、初めから他の楽器で練習するよりも良い音が出せるような感触を得ています。

チェンバロ音楽に日常的に親しんでいる人にとってはこの楽器の音の素晴らしさは何物にも代え難いと思いますが、チェンバロをほとんど初めて聴く人にとっては装飾が全く無いに等しいというのはどうなのでしょうか。初めての人を対象としたようなミニコンサートなどでは特に、久保田氏製作の楽器の豪華な装飾にお客様は一様に驚き、喜び、満足して帰っていかれますので、この楽器はある程度チェンバロを聴き慣れた人向けの演奏会の時だけに使う方が効果的なのかもしれません。

しかしこれらの問題は1人で3台ものチェンバロを持っていればこそ生じる贅沢な悩みです。チェンバロは国と時代によって本当に個性的な楽器が発達していたので、欲を言えばきりがないのですが、さすがにもうこれ以上楽器が増えることはないでしょう。手に入れた当初の熱狂的な興奮状態は収まってきて、だいぶ冷静に楽器と付き合えるようになってきました。自分より年上のこの楽器ときちんと向き合って、世界的な楽器を持つにふさわしい演奏家と言われるように精進します。

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